語族・語派でまとめる古代オリエント史
世界史の教科書を読んでいると
「○○人」という言葉がたくさん出てくる。
特に古代オリエント史に多い。
山川出版『詳説世界史B』
第1章「オリエントと地中海世界」に登場する
「○○人」は全部で17もある!!
シュメール人
アッカド人
アムル人
ヒッタイト人
カッシート人
ヒクソス
カナーン人
海の民
アラム人
フェニキア人
ヘブライ人
イラン人(ペルシア人)
アム川上流のギリシア人(バクトリア人)
遊牧イラン人(パルティア人)
農業に基礎を置くイラン人
エフタル
突厥(とっけつ)
ヒクソスや海の民、そしてエフタルや突厥は
「○○人」と呼ばないけど
「ヒクソス」人
「海の民」人
「エフタル」人
「突厥」人
…と呼んでも
内容の理解に問題はないからね。
これら17個の用語
全てに当てはまる
わけではないけど
「○○人」というときは…
「シュメール語」を話していた集団が
「シュメール人」というように
“言語”によって人間集団を分けている場合が多い。
第1章「オリエントと地中海世界」に登場する
「○○人」を“言語”によって分類する!!
これが、今日のテーマだ。
●語系?語族?語派?
同じ“言語”を話す人間集団を
「○○人」ではなく「○○語系」
ということがある。
上の表は山川出版『詳説世界史B』から転載した
「世界の諸言語の系統分類表」だ。
「語族」も「語派」も
同じ言語を共通の起源に持つ「言語のグループ」
なんだけど…
歴史学の本では「語族」「語派」を
「言語のグループ」ではなく
同じ言語を話す「人間のグループ」
の意味で使う場合が多い。
●「世界の諸言語の系統分類表」で第1章を分類する
第1章「オリエントと地中海世界」
に登場する「○○人」が
話していた言語の多くは
「世界の諸言語の系統分類表」でいえば
「インド・ヨーロッパ語族」と
「アフロ・アジア語族」の
「セム語派」と「エジプト語派」だ。
例外は
シュメール語とカッシート語。
この2つの言語の帰属はわからない。
だから
シュメール語やカッシート語を
話していた人たちの起源も
わからない。
教科書も両者について
「民族系統不明」
としている。
●ほとんどは「セム語系」の人々
上の画像は
古代オリエント諸国の興亡を
まとめたもの。
エジプトは
王国としての「繁栄期」を
古王国・中王国・新王国と呼ぶ。
初期王朝期とウル第3王国時代に支配者となったシュメール人と
カッシート王国を開いたカッシート人は
民族系統が不明。
それ以外は…
アッカド人も
イシン・ラルサ・バビロンの支配者となったアムル人
そしてアッシリア人も
全てセム語系の人々だ。
違うのは
ヒッタイト人とミタンニ人
教科書は
「インド・ヨーロッパ語系のヒッタイト人は」
と明記しながら
ミタンニ人については触れていないが…
ミタンニ王国の支配者は
「マリヤンヌ」と呼ばれる
インド・ヨーロッパ語系の人々。
ミタンニ王国の歴史は
インド・ヨーロッパ語系の人々を
支配者にして始まった。
前二千年紀(前2000~1001年)後半
北メソポタミアから東地中海岸
そして小アジアにかけての地域の支配者は
「インド・ヨーロッパ語系」の人々だった。
しかし
教科書だけを読んでいると
古代オリエントの歴史に
いきなり
「インド・ヨーロッパ」語系の人々が登場するわけで
戸惑わずにはいられない。
●「インド・ヨーロッパ語系」の大移動とは?
まず上の地図を見て欲しい。
濃いピンクで塗られているのは
“黒海とカスピ海の北側に広がる草原地帯”だ。
“そこ”から矢印が
ヨーロッパ・小アジア・インド
さらには中国西部にまで広がっている。
この地図は…
“そこ”に同じ言語を話していた
「インド・ヨーロッパ語系」の人々がいて
“そこ”から分かれて世界中に広がっていった。
…ということを、表した地図なのだ!
インド・ヨーロッパ語系の人々は
前三千年紀(前3000~2001年)には
“そこ”で牧畜生活をしていた。
彼らは
インド・ヨーロッパ祖語(印欧祖語)
という同じ言葉を話していた。
しかし…
インド・ヨーロッパ祖語(印欧祖語)
の実態は解明されていない。
わかっていることは…
同じ言葉を話していた集団が
「ヨーロッパに向かった集団」と
「ヨーロッパには行かなかった集団」
に分かれたことだ。
●「インド・ヨーロッパ語系」の大移動を解説
① 前3千年紀末から前2千年紀の初め
「黒海とカスピ海の北側に広がる草原地帯」から
移動して東西に分かれた集団があった。
東に向かった
「インド・ヨーロッパ語系」の人々は
タリム盆地の北辺に定着。
トカラ語を話すトカラ人となった。
西に向かった
「インド・ヨーロッパ語系」の人々は
またペロポネソス半島に定着した人々は
ギリシア語を話すアカイア人となった。
(前1400年頃にアカイア人はクレタ島に侵攻。
クレタ文明を滅ぼしている。)
② 前2千年紀中頃(前17~15世紀)
後にゲルマン語系やイタリック語系となる人々も
「黒海とカスピ海の北側に広がる草原地帯」から
ヨーロッパに移動した。
「インド・ヨーロッパ語系」の人々が
ヨーロッパに向かった集団とそれ以外の集団に
決定的に分かれたのだ。
「それ以外の集団」が
「インド・イラン語系」であり
彼らを「アーリア人」という。
アーリア人は
「インド系アーリア人」と
「イラン系アーリア人」に分かれた。
インド亜大陸に進出して定住した人々が
「インド系アーリア人」であり
③ 前1千年紀の初め(前9世紀頃)
イラン系アーリア人によって
騎馬による遊牧という「生活形態」
が初めて考え出された。
「騎馬遊牧民」の誕生だ。
この生活形態を受け入れるか否かによって
イラン系アーリア人は
「遊牧民」と「定住民」に分かれることになった。
(モンゴル高原の匈奴が、サカ人の影響を受けて
騎馬遊牧民になったのは前5世紀頃だ)
この頃には
後にケルト語系・スラヴ語系・バルト語系と呼ばれるようになった
「インド・ヨーロッパ語系」の人々もヨーロッパに移動している。
●「イラン系アーリア人」と古代オリエント史
馬と二輪戦車(チャリオット)の活用が始まった
前1500年頃から
古代オリエントを政治的・文化的に主導する人々だった。
彼らの活躍は…
中央アジアでは
テュルク化が進む10世紀まで続いた。
言い換えると…
前612年のアッシリア帝国滅亡後の
メディア王国の西アジア支配から
アケメネス朝ペルシア
パルティア王国
ササン朝ペルシアに至る1200年間は
「イラン系アーリア人」が古代オリエントの政治的覇権を握った時代だったのである。
●参考文献
・ディヴィット・W・アンソニー/東郷えりか(訳)
『馬・車輪・言語』筑摩書房(原著2007年)
・クリストファー・ベックウィズ/斉藤純男(訳)
『ユーラシア帝国の興亡』筑摩書房(原著2009年)
・小川英雄『古代オリエントの歴史』慶応大学出版会(2011年)
楔形文字からアルファベットへ‐文字の古代オリエント史
上の画像は
大英博物館に所蔵されている
楔形文字のタブレット
当時の「書類」だね(^_^)
さて…
山川の世界史教科書の第1章のタイトルは
「オリエントと地中海世界」
第1章で
「文字についての解説」があるのは
次の5カ所
・シュメール人が始めた楔形文字が多くの民族のあいだで使用され、言語が異なってもみな粘土板に刻んだ楔形文字を使用するようになった。
(19ページ)
・彼らが使用したエジプト文字には、碑文や墓室・石棺などに刻まれる象形文字の神聖文字(ヒエログリフ)と、パピルス草からつくった一種の紙(パピルス)に書かれる民用文字(デモティック)とがあった。
(21ページ)
・線文字Bはミケーネ時代のギリシア人がクレタ文明の線文字A(未解読)に学んでつくった音節文字で、イギリスのヴェントリス(1922~56)らが解読した。
(29ページ)
・フェニキア人の文化史上の功績は、カナーン人の使用した表音文字から線状のフェニキア文字をつくり、これをギリシア人に伝えて、アルファベットの起源をつくったことにある。
(22ページ)
・そのためアラム語が国際商業語として広く使われるようになり、アラム文字は楔形文字にかわってオリエント世界で用いられる多くの文字の源流となった。
(22ページ)
今日のテーマは…
「文字の古代オリエント史」
さっそく教科書の解説
始めるよ♪
●シュメール人が始めた楔形文字が多くの民族のあいだで使用され、言語が異なってもみな粘土板に刻んだ楔形文字を使用するようになった
楔形文字の歴史は2千年以上あって
上の画像からわかるように
その間に
かなり変化している。
教科書の説明は簡潔だけど
疑問点はある。
①「楔形文字」とは、どんな文字?
②「言語が異なっても…」って、どういうこと?
③「多くの民族」って、どれくらい?
【①「楔形文字」とは、どんな文字?】
この画像は
「最古の楔形文字」といわれるもの。
シュメール人が
紀元前3200年頃に描いたもので
「ウルク古拙文字」という。
字体は「楔形」とはいえない。
ウルク古拙文字は
具体的な線描で描かれた「絵文字」だった。
楔形文字が表語文字や音節文字として
意味だけでなく「音も表す」ようになったのは
紀元前2500年頃のこと。
千以上あった文字数は
最終的には200字程度にまで縮小された。
しかし…
1字が多くの音を表したりするので
音声補助文字や
意味を明確にする限定詞が使われて
文字の仕組みは複雑だった。
【②「言語が異なっても…」って、どういうこと?】
シュメール人の都市国家抗争を終わらせて
「統一」をもたらしたのは…
アッカド人(セム語派)のサルゴン王。
前2334年にアッカド王国を建国して
メソポタミアを統一した。
勝者であるアッカド人は
シュメール人の文字(楔形文字)を採用した。
当たり前だけど…
言語と文字は違う!
言語は文字なしで存在する
ことが出来るし
ひとつの文字体系は
複数の言語を表現することが出来る。
アッカド文字は
アッカド語の表記に合うように
改良された楔形文字だ。
しかし…
シュメールの文学を集め
書写・翻訳にも熱心だった。
そのような伝統を背景に
アッカド語による文学作品がつくられた。
有名なのは「ギルガメシュ叙事詩」だ。
ちなみに…
アッカド語とは
狭義にはアッカド王国の「古アッカド語」のことだが
広義には後に分化した
バビロニア語(方言)とアッシリア語(方言)を含む。
【③「多くの民族」って、どれくらい?】
前18世紀には
バビロン第1王朝の6代目
ハンムラビ王が
メソポタミア全域を支配。
彼らが話していたのはバビロニア語
もちろん
アッカド語の楔形文字が使われていた。
他にも…
・ヒッタイト王国のヒッタイト語
・ミタンニ王国に関わるフリ語
・カッシート王国を滅ぼしたエラム人のエラム語
なんと…
前14世紀の
古代オリエント世界は
エジプト以外
全ての地域の言語で
アッカド語の楔形文字が使われていたのだ!!
●彼らが使用したエジプト文字には、碑文や墓室・石棺などに刻まれる象形文字の神聖文字(ヒエログリフ)と、パピルス草からつくった一種の紙(パピルス)に書かれる民用文字(デモティック)とがあった
神聖文字(ヒエログリフ)
神官文字(ヒエラティック)
民用文字(デモティック)
エジプト文字には
ヒエログリフの筆記体である
「神官文字(ヒエラティック)」があった。
つまり
エジプト文字は
神聖文字(ヒエログリフ)
神官文字(ヒエラティック)
民用文字(デモティック)の3種類ある。
なのに…
教科書は「ヒエラティック」について書かれていない。
古代エジプトでの日常的文字だったのに。
…なぜだろう?
(ちなみに、3種類の文字は外見が違うだけで、機能は変わらない)
【ヒエログリフが使われ始めたのはいつ頃か?】
ヒエログリフが
いつ頃使われ始めたかについては
まだ解明されていない。
しかし「ウルク古拙文字」の出現が
ヒエログリフに先行したことは確からしい。
ヒエログリフは一見すると
絵文字のように見えるが、
意味を表す文字だけでなく
発音を表す文字も含んでいる。
エジプト人はシュメール人から
表語文字や表音文字という「発想」を借用したのだ。
【最初のアルファベットはエジプトで生まれた!】
エジプト人は「頭音法」によって
ヒエログリフに「子音文字」の性格を持たせた。
「頭音法」とは
記号の最初の子音だけを文字として使う原理。
例えば…
(bw)と読まれた「脚」の記号は
子音文字(b)として使うことになる。
このようにして作られた
子音文字(単子音記号)は
ヒエログリフ約700文字中26文字ほどある。
これは
まさに「アルファベット」だ。
アルファベットとは
「個々の音素(子音または母音)を個別の記号(文字)で示す表記体系」だから。
最初にアルファベットを考案したのは
古代エジプト人だったのだ!
ただしヒエログリフでは
子音文字(単子音記号)は
表語文字・音節文字・決定詞とともに使われた。
エジプト人書記は…
子音文字単独の文字体系(アルファベット)に気づきながら
それを独立させる考えはなく
複雑な文字体系を維持し続けたのだった。
●線文字AB→フェニキア文字→アラム文字
【フェニキア文字】
まず
教科書の説明を「順番に」
抜き出してみる。
・そのためアラム語が国際商業語として広く使われるようになり、アラム文字は楔形文字にかわってオリエント世界で用いられる多くの文字の源流となった。
(22ページ)
・フェニキア人の文化史上の功績は、カナーン人の使用した表音文字から線状のフェニキア文字をつくり、これをギリシア人に伝えて、アルファベットの起源をつくったことにある。
(22ページ)
・線文字Bはミケーネ時代のギリシア人がクレタ文明の線文字A(未解読)に学んでつくった音節文字で、イギリスのヴェントリス(1922~56)らが解読した。
(29ページ)
「アラム文字→フェニキア文字→線文字AB」の順になっている。
しかし
文字の歴史という観点から言えば
真逆の方向から見直した方が理解がしやすい。
そこで
「線文字AB→フェニキア文字→アラム文字」という順に解説してみる。
【線文字Aと線文字B】
・線文字Bはミケーネ時代のギリシア人がクレタ文明の線文字A(未解読)に学んでつくった音節文字で、イギリスのヴェントリス(1922~56)らが解読した。
(29ページ)
前二千年頃
地中海交易で富を獲得したギリシア人は
巨大な宮殿を中心とする文明を興した。
クレタ島のギリシア人は
前1850年頃には
エジプトにまで市場を広げた。
迅速な会計記録のため
ビブロスの音節文字を借用して
生まれたのが「線文字A」である。
(出土例が少ないこともあって未解読)
クレタ文明は…
南下してきた別のギリシア人(アカイア人)
によって前1400年頃に滅ぼされ
「ミケーネ文明」に取り込まれた。
「線文字B」は
線文字Aを発展・洗練させた
ミケーネ文明の頃に使われた文字である。
クレタ文明の線文字Aも
ミケーネ文明の線文字Bも
音節文字であった。
しかしミケーネ文明が崩壊すると
どちらの文字も使われなくなった。
音節文字は「1字が1つの音節(子音と母音の組み合わせ)を表す文字」だ。
「子音の集まりが多い」ギリシア語の表記には向かなかったのである。
フェニキア人から
フェニキア語を借用して改良を加え
「ギリシア文字」を作ってからのことになる。
【フェニキア人とアルファベット】
・フェニキア人の文化史上の功績は、カナーン人の使用した表音文字から線状のフェニキア文字をつくり、これをギリシア人に伝えて、アルファベットの起源をつくったことにある。
(22ページ)
ミケーネ文明が滅亡した後
ギリシア人の後を継いで
地中海貿易の覇者となったのが
フェニキア人だ。
教科書は…
「フェニキア人は、フェニキア文字をギリシア人に伝えて、アルファベットの起源をつくった」
と、説明する。
上の「主要な文字の系統図」をみてみよう。
ギリシア文字のアルファベットは
エトルリア人を通してローマ人に伝わってラテン文字となり
現代ヨーロッパ文字のアルファベットになった。
しかし…
フェニキア文字のアルファベット以前には
原カナン文字・原シナイ文字・エジプト聖刻文字のアルファベットがあった。
まとめると次のようになる。
↓エジプト聖刻文字のアルファベット
↓原シナイ文字のアルファベット
↓原カナン文字のアルファベット
↓フェニキア文字のアルファベット
↓ギリシア文字のアルファベット
↓エトルリア文字のアルファベット
↓ラテン(ローマ)文字のアルファベット
アルファベットの“起源を作った”のは
「フェニキア人ではなくエジプト人だ」
ということがわかると思う。
「原シナイ文字のアルファベット」とは
セム語を話す人たちがエジプト人の真似をしたか
彼らが独自に考案したかして作った
「セム語の子音字アルファベット」をいう。
教科書の「カナーン人の使用した表音文字」とは
「原カナン文字のアルファベット」だ。
前1050年以降
原カナン文字のアルファベットは
フェニキア文字やアラム文字のアルファベットなどに分かれていった。
上の画像に戻って
【フェニキア文字】を見てみよう。
絵文字と違って
曲線が少なくて複雑な形ではない。
「線状のフェニキア文字」の
「線状」とは、そういうこと。
より少ない直線で書けるから
書くスピードも速くなる。
アルファベットでは
文字自体に意味はない。
ひとつ、あるいは複数の文字が組み合わせて
「単語」になったときに「意味」をもつ。
このような…
話し言葉を記録する「方法(仕組み)」
を「アルファベット」という。
アルファベットを使えば
表語文字(漢字など)のように
何百もの文字を覚える必要はない。
30文字程度あれば
どんな言語も記録できた。
文字が「誰にでも使えるもの」になったのだ。
「山川の世界史教科書」の説明は
次のように言い換えるとわかりやすくなる。
・フェニキア人の文化史上の功績は、カナーン人の使用した表音文字から線状のフェニキア文字をつくり、これをギリシア人に伝えて、アルファベットの起源をつくったことにある。 (教科書 22ページ)
↓
・フェニキア人の文化史上の功績は、アルファベットを採用してフェニキア文字をつくり、これをギリシア人に伝えて、アルファベットが広がるきっかけをつくったことにある。
【アラム文字はなぜ広まったのか?】
・アラム人は前1200年頃からダマスクスを中心に内陸都市を結ぶ中継貿易に活躍した。
そのためアラム語が国際商業語として広く使われるようになり、アラム文字は楔形文字にかわってオリエント世界で用いられる多くの文字の源流となった。
(教科書 22ページ)
上の【主要な文字の系統図】をみてみよう。
アラム文字は
フェニキア文字の直系だ。
前10世紀頃
よりアラム語の表記に向いた
「アラム文字」が作られた。
前8~7世紀には
アラム文字はエジプトを除く
古代オリエントで最も使われる文字となった。
さらにアラム文字は
ヘブライ文字やアラビア文字の起源となり
インドやさらに遠い地域の何百もの文字の起源となっている。
文字の存続や影響力を決めるのは
使う人の経済力と権力だ。
教科書のいう「内陸都市を結ぶ中継貿易」とは
ラクダを使った隊商貿易(キャラバン)だ。
これはアラム人の独壇場。
政治的には敵対して
アラム人の都市国家を滅ぼしたアッシリア王国も
「ラクダを使った隊商貿易」に依存していた。
アッシリ王エサルハドンの「エジプト遠征」も
「ラクダを使った隊商貿易」を仕切る
アラム人の協力がなけれ不可能だった。
古代オリエントにおいて
これほど経済的に影響力を持った民族はいなかったのである。
●「文字の種類」について
教科書は「表音文字」「音節文字」という用語を使っている。
“文字の種類”について、まとめてみた。
(文法の解説みたいで退屈だけど
この知識がないと文字の歴史はわからない。)
┌音素文字(アルファベット文字)
┌表音文字┤
│ └音節文字(かな文字)
表す音が決まっている文字┤
│
└表語文字(漢字)
音を表すことがない文字 ─ 表意文字(絵文字)
表音文字と表語文字の共通点は、
どちらも「表す音」が決まっていること。
「A」なら「エイ」だし、
「は」なら「ハ」と、
表す音(読む音)が固定される。
漢字も「青」なら「アオ」か「セイ」と読むから、
表す音(読む音)が2つに固定される。
表意文字は「音を表すことはなく
意味だけを表す文字」のこと。
例えば「絵文字」
照れ笑いをしている絵文字は
“照れ笑い”という“意味”は表現するが
「へへへ」とか「うふふ」という音は表さない。
表音文字は
文字自体に意味はない。
「d・e・s・k」
「つ・く・え」のように…
文字が特定の順序につながって(単語になって)
意味を持つ。
これに対して漢字のような
表語文字は文字自体が意味を持つ。
1字が意味だけでなく、音も表す文字だ。
下に…
音素文字と音節文字の違いを
まとめるけど、
なんかしっくりこなかったら
「アルファベット文字が音素文字で、
かな文字のような文字が音節文字」
という感じでとりあえず問題ない…。
【音素文字】─
・1字が1つの音素(子音または母音)を表す文字
・多様な言語音を表すことが可能
【音節文字】
・1字が1つの音節(子音と母音の組み合わせ)を表す文字
・表語文字で表しにくい固有名詞などの表現が容易
●参考文献
・桑原俊一「文字の起源‐古代オリエントの文字からギリシア・アルファベット文字へ‐」
『北海学園大学人文論集』42(2009年)
・渡辺和子「メソポタミアの文字の歴史」
『四大文明メソポタミア』NHK出版(2000年)
古代メソポタミア「都市国家の実態」とは?
この図は…
古代メソポタミアの都市国家「ウル」の、最盛期の頃を想像して描かれている。
シュメール文明が最後に花開いた、前2000年頃の「ウル第3王国時代」だ。
ユーラテス川の川岸。
ウルの街は、上流に向かって突き出すように建設された。
先端近くの「ジッグラト(聖塔)」からは
ユーフラテス川を行き来する船が見えただろう。
画面右上
堤防のような壁が川を引き込んでいる。
ここが「北港」
ユーフラテス川と西側で接する「西港」と、ウルには二つの港があった。
ユーフラテス川の向こうには、広大な耕地が広がっている。
城壁で囲まれた都市が、周辺の耕地と集落を支配している…。
古代メソポタミア(特に南部の「シュメール」)にあった
「都市」のイメージを、この図はよく表している。
●東京ディズニーランドより一回り大きい
前5千年紀(前5000~4001年)のウバイド期には
すでにウルには人が住んでいた。
最盛期のウル第3王国時代(前2000年頃)には、面積が60ha。
推定人口は約3万人。
(東京ディズニーランドのパークエリアが約51ha)
その後、新バビロニア時代を経て
前4世紀末まで居住があったと考えられている。
新バビロニア時代には、聖域(テメノス)の外に新しい宮殿が作られ、
南東部には、聖域に伸びる、新しい目抜き通り(メインストリート)が建設された。
それに伴い、旧市街地は取り壊されて新しい町並みと入れ替わった。
都市の建設は、「計画的」だった。
城壁の場所が決定したら、まず、神殿や宮殿のある「聖域」が作られる。
どの都市も、川の流れに沿って上流部に「聖域」がある。
次に、「目抜き通り(メインストリート)」が建設される。
そして、そこを起点に街路(幹線道路)と排水施設が作られる。
まず、道路と排水施設が建設されたのだ。
●重要なのは「排水施設」
この図は「ハブーバ・カビーラ南」という
ウル以前の別の都市の復元図だ。
建物が作られる前に、まず溝と配水管が設置された。
し尿など生活排水を処理するためだ。
ウルでも、道路が建設されると
建物が作られる前に排水網が網の目のように設置された。
●「居住域」と「生産域」
「目抜き通り(メインストリート)」が建設されると
それを起点に街路(幹線道路)と排水施設が作られる。
「居住域」は…
街路で分割されたエリア(街区)ごとに、職能集団別に分かれていて、「生産域」の臭いや煙の影響の少ない場所に設定された。
(「魚町」「大工町」などに分かれていた、江戸時代の城下町を連想させる)
工房(工場)がある「生産域」は…
港の近くなど、原料の搬入や製品の搬出に便利な場所に設定された。
●「生産域」で製造されたモノ
ウルは、メソポタミアの最南部「シュメール」にある。
灌漑農業と牧畜により、穀物と羊毛は入手できた。
しかし…
瀝青(れきせい)という「天然アスファルト」以外の資源は全くない。
上の写真は、ウルの王墓から20世紀初めに発見された「牡山羊の象」だ。
木材を軸にして金銀箔や銅が貼られ、
ラピスラズリなど貴石をふんだんに使って装飾されている。
このような装飾品が、ウルで制作されたということは
以下のようなことが想定される…
・技術と才能のある人がいた
・職人が腕をふるう工房があった
・素材(木材・金属・貴石)を取り寄せる物流網があった
・高価な素材を取り寄せる経済力があった
・素材を加工する技術と工房があった
・製品を販売する販売網があった
●物流網は「組織的に機能していた」!!
遠隔地から素材を搬入して製品を製造するためには
原料の確保から製造・流通に至る複雑な過程がある。
現代と違って「企業」が存在しない古代社会のこと。
製造・流通は、都市の行政を担当する主体が仕切っていた。
(どこから、どんなもを、どれくらい確保するか、誰に、どんなモノを、どれくらい作らせるか)
都市の行政を担当する主体は…
「世俗的な支配者」と
「支配者を支える専門家(書記)」たちで構成された。
物流網が「組織的に機能していた」ということは
「彼ら」が行政だけでなく経済活動も仕切っていたということだ。
「世俗的な支配者」の住居が宮殿であるが
「宮殿」は行政や経済活動を仕切る「役所」でもあった。
支配者を支える専門家(書記)の仕事は、あらゆる場面に及んだ。
・農耕地を測量して灌漑施設の設置や修繕を計画する
・灌漑施設維持・建設のため労働者を配置する
・収穫物の保管と管理
・農耕具の管理(修繕や製作の発注)
・各工房・物流部門ごとに専門化して、原料の仕入れや製品の納入などの記録
「世俗的な支配者」と「支配者を支える専門家(書記)」たちが…
行政だけでなく経済活動も仕切っていたということは
神官の持つ権威以外は
「権力を掌握していたこと」を意味する。
「世俗的な支配者」は神官と連携、また自らが神官となり
「神の代理」として都市に君臨した。
「世俗的な支配者」は「国王」となり、都市は「都市国家」となった。
●都市は巨大な村ではない!
再び…
「上空から見たウル市街とジッグラト」の想像図を見てみよう。
ユーフラテス川の向こうには、広大な耕地が広がっている。
ウルに従属する集落の農民は
余剰作物をウルの神殿に運んだ。
神殿は倉庫であり、緊急時の避難場所でもあった
ウルの都市民は、従属する集落の農民に「食べさせてもらっている」ともいえる。
なぜなら、都市に住む人(都市民)とは…
神官・書記・職人・兵士など一次産業(農業など)に従事しない人たちだからだ。
なぜメソポタミアに村とは違う
「都市」が誕生したのか?
この問いを考えるには、メソポタミアの灌漑システムを見直す必要がある。
●メソポタミアの灌漑システム
メソポタミアとは、ティグリス・ユーフラテス川の流域とその周辺部のこと。
しかし、南メソポタミア(バビロニア)の都市はティグリス川ではなくユーフラテス川の流域で生まれた。
ティグリス川は流れが速く、灌漑に不向きだったからだ。
とはいえユーフラテス川も氾濫を起こし、
周囲より高い部分(自然堤防)をつくった。
ふだんのユーフラテス川は
過去の氾濫で出来た自然堤防の間を流れた。
つまり、周辺の土地より高い所を流れる「天井川」で
氾濫したときの被害も大きかった。
上の図は、メソポタミアの灌漑システムの模式図だ。
春の増水期に溢流は、ため池(F)や用水路に貯めておかれた。
水は泥土を沈殿させ、播種を行う秋に耕地へ導かれた。
導水も水が入りすぎないように、しかも耕地全体に水が行き渡るよう気が配られた。
メソポタミアの灌漑システムは、河床のわずかな高低差を利用して溢流を管理する高度な仕組みだったのである。
それには、多くの集落がまとまって行動することが求められた。
さらに、ため池や灌漑用水路の浚渫(しゅんせつ)は人手がかかる重労働だったが、必須のメンテナンスだった。
しかも、メンテナンスにも限界があるから、新しく作り直す必要もあった。
集落は水場に近い微高地が居住適地として選ばれ
同じ支川流域では集落同士が協力して人手を出した。
水管理に成功してより多くの収穫をあげた集落は
余剰食糧も豊富となり、周辺の遊牧民を雇うこともできた。
そんな「豊かな集落」は周辺の祭祀の中心となり、
原始的な神殿も生まれた。
人・モノ・情報の集積とともに、都市的な性格も濃厚になった。
こうして「一般集落」と「都市的集落」という
区別が生じた。
ウルのような都市国家にまで成長した都市であっても、
「一般集落」や「都市的集落」という段階があった。
ただし…
全ての都市は村だったが、全ての村が都市になるわけではない。
都市と村には「進化」と呼べるほどの違いがある。
都市は、様々な条件がかみ合った都市的集落が「進化」した希有な例だ。
●教科書はどう説明しているか?
①灌漑農業の発達したメソポタミア南部では、前3500年頃から、神殿を中心に多くの大村落が成立した。
②前3000年頃には、神官・戦士・職人・商人などの数が増え、大村落はやがて都市へと発展していった。
③各都市はそれぞれ独立の道を歩み、前2700年頃までにウル・ウルクなどシュメール人の都市国家が数多く形成された。
④都市国家では、王を中心に神官・役人・戦士などが都市の神をまつり、政治や経済・軍事の実権を握って人々を支配する階級社会が成立した。
⑤アッカド人は、メソポタミアやシリアの都市国家を最初に統一して広大な領域国家をつくった。
山川出版社『詳説世界史B』18ページからの抜粋を並べてみた。
順番にみていこう。
①灌漑農業の発達したメソポタミア南部では、前3500年頃から、神殿を中心に多くの大村落が成立した
ユーフラテス川水系の同じ支川流域では、集落同士が協力して灌漑施設の建設・維持に取り組んだ。
なかでも
水管理に成功してより多くの収穫をあげた集落は…
余剰食糧も豊富となり、周辺の遊牧民を雇うこともできたし
周辺集落の中心として神殿をもち、祭祀を仕切った。
教科書のいう「大村落」とは
「周辺集落の中心となった“神殿”がある拠点集落」だ。
②前3000年頃には、神官・戦士・職人・商人などの数が増え、大村落はやがて都市へと発展していった
都市は、巨大な村落ではない。
なぜなら、都市に住む人(都市民)とは…
神官・書記・職人・戦士・商人など
一次産業(農業など)に従事しない人たちだからだ。
大村落が都市へと「発展」するということは
大村落が都市へと「変身」したことを意味する。
農民は都市からはじかれ、
都市を支える存在として
「支配される人」に転換させられたのだ。
③各都市はそれぞれ独立の道を歩み、前2700年頃までにウル・ウルクなどシュメール人の都市国家が数多く形成された
前2500年頃のバビロニアでは、シッパル、キシュ、ニップル、ウルク、ウル、ウンマなど20以上の都市国家があった。
③でいう「それぞれ独立の道を歩み」とは、「都市どうしが競合・対立して戦争状態になること」だ。
当然、各都市とも軍事組織を拡充。戦争が「都市国家の形成・成熟を促した」のである。
④都市国家では、王を中心に神官・役人・戦士などが都市の神をまつり、政治や経済・軍事の実権を握って人々を支配する階級社会が成立した
④の文章は、以下のように読み替えた方が内容が明確になる。
都市国家では王を中心に、神官が都市の神をまつり、役人(書記)が政治や経済の、戦士が軍事の実権をにぎり、都市民や周辺村落の農民を支配する階級社会が成立した。
「都市」が生まれた後に、「都市国家」は生まれる(都市が都市国家と呼んでもよい状態になる)
しかし、何を指標に「都市」ではなく「都市国家」と呼ぶのかは、議論があるところだ。
僕は…
「王」と「王を支える専門家(役人)」集団が、
政治だけでなく経済活動も仕切るようになった段階が
「都市国家と呼んでもよい状態」だと思う。
「仕切る」ということは「支配‐被支配」という関係の固定だから、
この段階で「階級社会」も成立した。
⑤アッカド人は、メソポタミアやシリアの都市国家を最初に統一して広大な領域国家をつくった。
前2334年、アッカド人のサルゴン王はアッカド王国を建国。
(王都アッカドの場所は、未だ確認されていない)
サルゴン王は、メソポタミアの都市国家を征服して、各都市にアッカド人を長官とする守備隊を置いたのだ。
(これにより、メソポタミアの都市間抗争は終了)
サルゴン王は、王都アッカドを頂点として、諸都市を間接統治した。
これが…
「都市国家を統一してつくった広大な領域国家」の実態だ。
●参考文献
・小泉龍人『都市の起源』(2016年)講談社
・松本健『NHKスペシャル四大文明メソポタミア』(2000年)NHK出版
・前川和也『図説メソポタミア文明』(2011年)河出書房新社
・中田一郎『メソポタミア文明入門』(2007年)岩波書店社
・ジェームズ・C・スコット/立木優(訳)『反穀物の人類史』(2019年)みすず書房
○○人とは○○民族のことなのか?
世界史の本を読んでいると「○○人」とか「○○民族」という言葉に出会う。
そんな疑問をもったことはないだろうか。
さすが予備校の先生!!
「疑問」にズバリと答えていた。
「民族」という言葉はとても難しい概念で、この言葉をシンプルに、子どもにでも分かるように説明できる人はいない。
だから、この言葉は教科書からは消えていってる。一例を挙げる。旧来は「ゲルマン民族」と呼んでいたのが、最近の教科書のほとんどでは「ゲルマン人」と呼んでいる。
なぜか?
「民族」の概念は19世紀以後に登場するとした方が適切だからである。とはいえ、「民族」の語をあてないと説明できないことも多いため、現実には19世紀以前でも用いることが少なくない。
要するに、過度に気にしない方がいいということである。荒巻豊志『荒巻の新世界史の見取り図 上』(2010年)東進ブックス
荒巻先生の言う通りなんだけど…
「民族」の語をあてないと説明できない、というか
「民族」を「○○人」と言い換えているだけ。
という場合も多い。
●教科書を読んで数えてみた
山川の世界史教科書『詳説世界史B』は、全部で16章の構成になっている。
○○人や「○○人とは表していないけど実際はそう言っている」表現が、本文に何回登場するか。
数えてみた。複数回登場する場合は、最初の一回だけ
第1章(17) 第2章(11) 第3章(13) 第4章(6) 第5章(26) 第6章(5)
第7章(10) 第8章(0) 第9章(2) 第10章(1) 第11章(1) 第12章(5)
第13章(2) 第14章(4) 第15章(0) 第16章(0)
第1章「オリエントと地中海世界」に登場する17個の用語は、下記の通り
シュメール人
アッカド人
アムル人
ヒッタイト人
カッシート人
ヒクソス
カナーン人
海の民
アラム人
フェニキア人
ヘブライ人
イラン人(ペルシア人)
アム川上流のギリシア人(バクトリア人)
遊牧イラン人(パルティア人)
農業に基礎を置くイラン人
エフタル
突厥
「シュメール語」を話していた集団が「シュメール人」というように、
「○○人」というときは…
言語によって人間集団を分けている場合が多い。
山川『詳説世界史B』では「民族」という言葉を
「言語・宗教・習慣などの文化的特徴によって人類を集団にわける考え」としている。
確かに…
グループ分けの基準として、宗教・習慣よりも言語の方が分かりやすい。
●語族? 語派? 語系?
山川『詳説世界史B』13ページには、「世界の諸言語の系統分類表」がある。
「語族」とは、同じ言語(祖語)から分かれた言語グループ。
「語派」は、語族の下位グループだ。
この分類表を、よく見ると小さな字でこんな“注意書き”がある。
*なお、同じ系統の言語を話す人間集団を呼ぶ場合には、「~語系」というあらわし方がよく使われる。
なるほど…
「セム語系のアッカド人」というのは
「セム語派の言語であるアッカド語を話していた集団」という意味で理解すればいい。
●歴史学者のわがまま
山川『詳説世界史B』のように、
「語族・語派」という用語を「語系」という言葉を使って“変換”するのはありだな、と思う。
しかし…
断りもなく意味が「すり替えられている」こともあるから、困っちゃう。
繰り返すけど…
「語族」とは、同じ言語(祖語)から分かれた「言語の集まり」。
けれども、歴史学者の書く本では
「語族」を同じ言葉を話す「人間集団」としている。
どうやら、これは歴史学者にとっては常識で…
この本の中で青木先生は、ズバリ書いている。
「語族とは、言語的特徴によってつくられる集団の総称である」
世界史の勉強をする僕たちにとっては
「語族」を同じ言葉を話す「人間集団」と理解せざるを得ないようだ。
オリエント「2つの疑問」
高校世界史の教科書は…
「オリエントと地中海世界」から始まる。
でも…
(どうやら場所を表すらしいけど)
①「オリエント」って「どこ」だろう?
それに…
(古代オリエントなんていう言葉もある)
②「古代オリエント」って、いつの頃だろう?
●「オリエント」って「どこ」?
山川の世界史教科書には…
オリエントはどこか?
という「説明」はない。
けど…
上の2枚の地図で
述べては、いる。
オリエントとは…
以上、5つの場所(地域)の
「総称」なんだ。
●「古代オリエント」って「いつ」?
古代とは、時代区分の名称。
時代区分には、複数のスタイルがある。
山川の世界史教科書は
世界史を5つの時代に区分する
「五分法」を採用している。
古代‐中世‐近世‐近代‐現代
山川の世界史教科書は
第Ⅰ部が古代
第Ⅱ部が中世
第Ⅰ部
第1章 オリエントと地中海世界
第2章 アジア・アメリカの古代文明
第3章 内陸アジア世界・東アジア世界の形成
第Ⅱ部
第1章 イスラム世界の形成と発展
第2章 ヨーロッパ世界の形成と発展
第3章 内陸アジア世界・東アジア世界の展開
「古代オリエント」の時代とは…
メソポタミア文明・エジプト文明に始まり、
イスラム世界が形成される前までの時代。
山川の世界史教科書
第Ⅰ部‐第1章‐第1項
「古代オリエント世界」は
…という内容になっている。
「古代オリエントとは○○の時代」
というような「説明」はないけど
「古代オリエント」の時代とは…
メソポタミア・エジプト文明の始まりから
ローマ帝国とパルティア・ササン朝両帝国による
抗争の時代。
という「捉え方」で問題ないと思う。
●まとめ
山川の世界史教科書
『詳説世界史B』16ページ。
オリエントとはヨーロッパからみた「日ののぼるところ、東方」を意味し、
今日「中東」と呼ばれる地方を指す。
このオリエントの説明(定義)なんだけど
気になるところが2カ所ある。
「意味し」と「中東」だ。
「意味し」というと、「オリエント=ヨーロッパからみた東方」となる。
するとオリエントとは、中国や日本も含む「東洋」を指すことになるし、
実際そのように使われたこともある。
ただし、現在はそのような使われ方はしない。
それどころかアメリカではorientは差別語扱いだ。
英語圏でorientという用語は使わない。
『大英博物館版 図説古代オリエント事典』の原書名は
British Museum Dictionary of the Ancient Near East だし、
一般社団法人 日本オリエント学会の英語名は
The Society for Near Eastern Studies in Japan だ。
また「中東」と言う語は、地理的な境界によって画定されているものではなく、
「国際情勢の変化に敏感な」言葉だ。
古代オリエントを説明するのに、ふさわしい言葉だとは思えない。
→詳しくは下の「おまけ」をみてね(^_^)
オリエントの説明(定義)を読み替えると
このようになると思う
↓
オリエントとはヨーロッパからみた「日ののぼるところ」
すなわち「東方」を意味するラテン語(オリエンス)に由来するが、
今では英語圏で使われていない言葉だ。
この章では「オリエント」を、
エジプト、小アジア、シリア・パレスチナ地方(東地中海岸)、メソポタミア、イラン高原からインダス川にかけての地域
を総称する用語として用いる。
●おまけ
「中東」という言葉は
よく聞く。
でも、どこか?
と聞かれると困ってしまう。
というような「地理的要因」に基づいていないからだ。
「中東」は…
政治的な視点に基づいて範囲が決められる言葉。
だから、どのような視点で見るかによって
範囲はバラバラだ。
具体例をあげよう。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9D%B1
これは、ウィキペデイアの画像。
伝統的中東(深緑色)と
G8によって提案された拡大中東(薄緑色)
でかなり違う。
https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/middleeast.html
これは、外務省サイトの画像。
あれ!!
エジプトが入っていない?
https://www3.nhk.or.jp/news/special/new-middle-east/how-we-got-here/
これは、NHKのサイトの画像。
https://www.britannica.com/story/are-the-middle-east-and-the-near-east-the-same-thing
そして、ブリタニカのサイト。
このブリタニカの画像と
さっきのNHKのサイト画像
比べて「違い」に
お気づきだろうか?
NHKのサイト画像では
「中東」に含まれていない
アフガニスタンとスーダンが
ブリタニカの画像では
「中東」に含まれている。
ブリタニカの画像は
「2012年」の時点での「中東」。
南スーダンは2011年に独立している。
ブリタニカが「2010年」の時点での「中東」を描けば
「2012年」の時点での「中東」とは異なるだろう。
NHKのサイト画像以外、どの画像でも
アフガニスタンを「中東」に入れている。
これは…
2001年の9・11事件が影響している。
「9・11事件」が起こる前
のアフガニスタンは
パキスタンと同じ南アジア
あるいはタジキスタンなどとつながる中央アジア
の一部と捉えられていた。
「9・11事件」を起こしのは、テロ組織「アルカーイダ」。
そのテロ組織を支援するアフガニスタンのターリバーン政権はけしからん!
…そのような米国の視線と各国の追随がなければ
アフガニスタンは「中東」にならなかったはずだ。
●参考文献
池内 恵 「中東」概念の変容
『中東協力センターニュース 2018・7』
灌漑農業‐エジプトとメソポタミアは全く違う!
知っているつもりでも、知らない言葉は沢山ある。
「灌漑」も、そうだ。
辞書には
「水路を作って田畑に必要な水を引き、土地を潤すこと」
と、ある。
正確に言えば…
灌漑とは、排水もセットになった「灌排水システム」のこと。
だから灌漑農業は
河川などの水を「管理して」行われる農業だ。
高校世界史で
灌漑農業が話題になる地域は
メソポタミアとエジプト。
でも…
メソポタミアとエジプトでは
「河川」が農業に与える影響が全く異なり
これが灌漑方法の違いになっている。
メソポタミアは、水路式灌漑(周年式灌漑)で
エジプトは、貯留式灌漑だ。
技術的には水路式灌漑の方が高度であり
高校世界史の教科書でも、その違いはちゃんと意識している。
(山川出版『詳説世界史B』)
●ナイル川に「氾濫」はなかった?
上の画像は、ギザの三大ピラミッド近くで19世紀に撮影された。
ナイル川の「氾濫期」の様子だ。
ナイル川の水位は5月頃から「じわじわ」と上がって
秋になると「じわじわ」と下がっていく。
だから…
「洪水」とか「氾濫」という言葉は、本当はふさわしくない。
「エジプトではナイル川の増減水を利用して農業が行われた」
という教科書の表現は、適切なのである。
「氾濫期」に水につかる場所は、上図②の沖積地。
ここは耕地になる場所なので
人々は小高い所や「③低位砂漠」のふちに住む。
水位が高いときは船を使って行き来した。
農民にとって耕地が冠水する時期は、農閑期。
水が引いた後の11月に種を蒔き、収穫は翌年の4~5月初旬。
つまり、収穫が終わった後に「氾濫期」がやってくるわけだ。
このように…
ナイル川は、周期的(定期的)に増減水した。
●エジプトの「貯留式灌漑」とは?
ナイル川の「氾濫」は、自然の恵み。
古代エジプト人にとって
堤防やダムで「氾濫を防ぐ」という
「治水」の発想はなかった。
ただし、運河(灌漑水路)を作って
水を引き込んだり貯めたりして
「氾濫」を有効に利用する工夫はした。
ナイル川「氾濫」の水量には
変化があったからだ。
エジプトの「貯留式灌漑」とは
この「工夫」だ。
具体的に説明しよう。
9月から10月始めにかけて
ナイル川の氾濫(溢流)は最高水位に達する。
このとき…
沖積地のはずれに向かって掘り進めた運河(灌漑水路)の水門を閉じる。
運河から枝分かれした支線水路を通して、水は耕地にゆきわたる。
その後、ほぼ60日間にわたって耕地の上に水を滞留させる。
60日後、水門を開いて水をナイル川に戻す。
60日間の湛水で沈泥(シルト)を沈積させ
排水によって耕地の塩化物を洗い流す。
これが、エジプトの貯留式灌漑(貯留式灌排水システム)だ。
沈泥の肥効だけでなく
湛排水による脱塩効果は
乾燥地の農業にとって大きな利点があった。
このファイルはCreative Commons Attribution 2.0 Genericライセンスの下でライセンスされています。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Nile_Flood_plain_limits_(2009).jpg
上の写真は、2009年に撮影された。
アスワンダムが建設されても
ナイル川の沖積地と砂漠に「境界」はある。
エジプトでは
今でもナイル川の「溢流」が届くところまでが耕地で
その先は荒れ地なのである。
●メソポタミアの地形
「メソポタミア」とは…
ティグリス・ユーフラテス川の流域とその周辺部のこと。
北メソポタミアをアッシリア(Assyria)
南メソポタミアをバビロニア(Babylonia)という。
上の地図で着色強調された地域が「バビロニア」だ。
(青い線は、推定の河川水路)
バビロニアはニップルを境にして
北部をアッカド、南部をシュメールという。
ウル・ウルクなど、メソポタミア文明は
シュメールの都市国家から始まっている。
メソポタミアの地形は…
上の断面図でいえば
「台地」がアッシリアで
「沖積平野」がバビロニアだ。
ティグリス川は流れが速く
春には急激に増水・氾濫して灌漑には不向きだった。
だから古代には、ティグリス川に沿って大きな町が発達することはなかった。
ユーフラテス川は流れはゆるやかであったが
枝分かれをして河口付近では沼沢など「湿地」を形成。
強い日差しを受けて蒸発したりして
実際はその水がペルシア湾に注ぐことはなかったと考えられている。
ティグリス川よりゆるやかであったが
ユーフラテス川も氾濫を起こした。
そして氾濫のたびに流れを変え
新たな「自然堤防」をつくった。
ふだんのユーフラテス川は
過去の氾濫で出来た自然堤防の間を流れた。
つまり、周辺の土地より高い所を流れる「天井川」で
氾濫したときの被害も大きかった。
●メソポタミアの自然堤防
「自然堤防」とは
氾濫した川が運んだ粗い沈泥が堆積して出来た自然の堤防のこと。
ティグリス・ユーフラテス川の沈泥の量はナイル川の3~5倍で、
自然堤防の規模も大きかった。
高さは2~3メートル。
幅は水路と両側の自然堤防をあわせて2~3キロメートルに及んだ。
上の断面図が示すように…
自然堤防と隣接したゆるやかな傾斜地が耕地となり
麦(穀物)はゆるやかな傾斜地で栽培された。
人々は自然堤防に取水口をつくり
灌漑用水路を設けて傾斜地に水を引いた。
水は耕地から「水はけの悪い窪地」や「湿地」に流れ込み
元に戻ることはなかった。
ここがエジプトの「貯留式灌漑」と違うところ。
ナイル川は沖積地(耕地)からみて下を流れていたが
ユーフラテス川は耕地の上を流れる天井川だからだ。
●メソポタミアの水路式灌漑とは?
上図は、ユーフラテス川の水位変化を
グラフ化したもの。
ユーフラテス川の水位は
春に上昇のピークを迎え、秋になると低水位で安定した。
氾濫は水位がピークを迎えた後の6月に多かったが
定期的に増減水するナイル川とは違って
ユーフラテス川の氾濫は時期・流水量とも定まっていなかった。
ティグリス川の洪水と合流したり、上流の雪解けが多かったりすると
大量の流水が自然堤防を破壊。
その結果、流路が変われば旧水路での灌漑は不可能になり
人々は集落を捨てて離散した。
そのような壊滅的氾濫でなくても
溢流はため池や灌漑用水路に貯めておかれた。
春は麦の収穫期なので耕地の冠水を防ぐ必要があったし
天井川とはいえ水位が上昇する氾濫期の後に水を引くことは困難だったからだ。
https://www.researchgate.net/publication/271898791_Traditional_Dam_Construction_in_Modern_Iraq_A_Possible_Analogy_for_Ancient_Mesopotamian_Irrigation_Practices
上図は、メソポタミアの灌漑システムの模式図。
かまぼこ形の住居の周りには、果樹園や菜園が広がり
耕地(麦畑)は線状で示されている。
灌漑用水路は、Ⅰ~Ⅲの3系統になっている。
Bの水門を開けばⅡ系統の用水路に水が導かれ
Cの水門を開けばⅢ系統の用水路に水が引かれる。
Aは取水口であり、春に取り入れられた溢流は
F(ため池)に貯められた。
Fがいっぱいになると
B・Cの水門が開けられて用水路に水が貯められた。
耕地(麦畑)で灌漑用水が必要になるのは
秋の犂耕・播種とそれ以降だからだ。
またティグリス・ユーフラテス川が運ぶ泥土は
量が多い(ナイル川の3~5倍)だけでなく
塩化物も多くてナイル川流域のように
溢流をそのまま耕地へ入れることはできなかった。
溢流はため池や灌漑用水路に貯めて
泥土を沈殿させる必要があった。
したがって、ため池や用水路の浚渫(しゅんせつ)は必須で
新しく作り直すことも求められた。
このように…
メソポタミアの水路式灌漑は
河床のわずかな高低(落差)を利用して
溢流を管理する高度な灌排水システムだった。
このシステムは、強力な政治的統一を前提として
莫大な労働力と村落共同体の規模を超える
「管理の集中」によって維持された。
上図は、ニップル出土の粘土板に描かれていた
播種(種まき)の様子である。
耕起用の犂には
ろうと状の「条播器」が取り付けられている。
メソポタミアの農業は
条播技法の開発という意味でも先進的だった。
まず第一に注意しなければならないのは灌漑である。
畑に水が入りすぎないよう水をせき止めたら、耕地に水が平均に行き渡るように気を配らねばならない。次にはその湿った耕地を地ならしして、牛やその他の獣に荒らされないように、その四隅に囲いをしなければならない。
犂耕と播種は同時に行われ、鋤に取り付けた種子蒔き用の細長い管から犂耕と同時に種子を畝にこぼしてゆく。
そのとき、種子はむらのない一定の深さに蒔かれ、畝には麦の発芽をおさえる土塊のないようにしておかねばならない。発芽したら、野ねずみや鳥などが生育する麦を荒らさないように注意せねばならない。
麦の生長の度合いに合わせて三回から四回の灌漑をおこなう。収穫の時が訪れると、農夫は三人が一組になって穂がその重みで垂れるのを待たないで、まだピンと立っているときに刈り取らねばならない。
それがちょうど刈り時なのである。それから脱穀が行われるが、その作業は麦の茎をを粗い板で前後にこく方法でなされ、穀粒に混ざった泥やゴミを払い落とした。
金 治権『オリエント史と旧約聖書第一巻人類の誕生・文明の発生』
耕地は耕区に分かれていて
耕区ごとに耕作された。
収穫が終わると、翌年は休耕になった。
すなわち耕作は二年に一回の「隔年耕作」であり
それは地味の枯渇や塩害を防ぐためであった。
シュメール人は過酷な集団労働によって
高度な灌排水システムの構築に成功した。
しかし「高度な灌排水システム」は
強力な政治的統一(安定)を前提とするものだった。
安定を欠いて灌排水のバランス維持に失敗すれば
耕地は塩化し、泥土は用水路を塞いで耕地は不毛の荒地となる。
課税記録によると…
大麦の収穫量は
前2400年頃にヘクタールあたり2520リットルあった。
しかし前2100年頃のウル第3王朝時代になると
1350リットルに減少。
バビロン第1王朝時代の前1700年頃には
900リットルに減少した。
現在、砂漠の中に埋没しているシッパル・ニップル・ウル・ウルクなどの諸都市は
もともとユーフラテス川の河岸に建設されていたのである。
●参考文献
吉村作治/後藤健 編『NHKスペシャル四大文明 エジプト』(2000年)NHK出版
小泉龍人『都市の起源』(2016年)講談社
松本健 編『NHKスペシャル四大文明 メソポタミア』(2000年)NHK出版
前川和也『図説メソポタミア文明』(2011年)河出書房新社
大城道則『古代エジプト文明』(2012年)講談社
中田一郎『メソポタミア文明入門』(2007年)岩波書店
中島健一『河川文明の生態史観』(1997年)校倉書房
馬場匡浩『古代エジプトを学ぶ』(2017年)六一書房
メソポタミア文明は四つある!
中学校の歴史の教科書には、必ず登場する「四大文明」
その中でも最古の文明が「メソポタミア文明」。
だけど…
高校世界史の教科書を探しても
「メソポタミア文明とは何か」という説明は
ない!!
メソポタミア文明って、何だろう?
ウィキペデイアで「メソポタミア」を検索すると…
「古代メソポタミア文明は、メソポタミアに生まれた複数の文明を総称する呼び名」とある。
なるほど、でも…
「複数」って、いくつだろう?
メソポタミアの3000年の歴史のなかには、古い順に、
シュメール・アッカド・バビロニア・アッシリアという
まったく異なる四つの文明が盛衰している。その四つは、場所・民族・出土品など、すべての点において異質なのだ。
メソポタミア文明は「四つ」あるんだ。
●4つの文明を年表で確認する
【シュメール文明】
(前3500年頃~前2004年頃)
(前2112年頃~前2004年頃)
上の年表で
「編みかけになっている」四つの部分。
・ウルク期
・ジェムデド・ナスル期
・初期王朝期
・ウル第3王国時代
ここは「シュメール人」が歴史の担い手だった時期。
ほぼ「シュメール文明」の頃と重なる。
シュメール文明の初期王朝期とウル第3王国時代に
挟まれているのが「アッカド王国時代」。
ここが「アッカド文明」に当てはまる。
【バビロニア文明】
(前1830年頃~前1026年頃)
(前625年頃~前539年)
・イシン・ラルサ時代
・バビロン第1王朝時代
・カッシート王国(時代)
・イシン第2王朝(時代)
・新バビロニア帝国(時代)
イシン・ラルサ時代とバビロン第1王朝時代を併せて
「古バビロニア」時代という。
中心はハンムラビ王の治世があったバビロン第1王朝時代。
カッシート王国(時代)とイシン第2王朝(時代)は、
いずれもカッシート人が要職にあった。
そのため併せて「カッシート時代」ともいう。
新バビロニア帝国(時代)は短命に終わっている。
しかし、ネブカドネザル2世はバビロニア文明の保護者であり無視はできない。
それどころか…
彼が残した建築遺構にはバビロニアを代表する建造物として名高いイシュタル門や、バベルの塔のモデルとなったともされるマルドゥク神殿エサギルのジッグラト跡などが含まれ、
また現在発掘調査が行われているバビロン市の遺構は大部分が彼の治世のものである。
【アッシリア文明】
(前883年頃~前612年)
アッシリア王国は前2000年頃に、アッシュルに生まれた都市国家を起源とする。
その歴史は1500年間に及ぶが、「アッシリア文明」は、「アッシリア帝国時代」の首都ニムルドやニネヴェの宮殿建築や美術品に代表される。
「アッシリア文明」とは、アッシリア帝国時代の幕開けであるアッシュル・ナツィルパル二世から帝国の滅亡までをいう。
●シュメール文明
上の画像は、初期王朝期Ⅲ期の王墓から出土された。
ウルの旗章(スタンダード)と呼ばれる。
貴石や貝殻で装飾され、当時の生活が生き生きと描かれている。
シュメール人は、暦法(太陰暦・太陰太陽暦)や六十進法を発達させ、車軸を発明して印章を普及させた。
印章には絵文字が刻まれ、絵文字からは楔形文字がつくられ、その後オリエント世界の多くの言語で使われた。
シュメール人は、南メソポタミア南部の地(シュメール)に、ウル・ウルク・ニップルなど多くの都市をつくった。
(しかし彼らの民族系統は不明であり、どこから来たのかもわかっていない)
文明とは都市化であり、都市生活のなかで諸文化が融合した生活様式である。
メソポタミア文明は、シュメール人がユーフラテス川下流域の「シュメール」に築いた都市国家での「シュメール文明」から始まった。
●アッカド文明
サルゴン王は征服した諸都市に、アッカド人(セム語派)の長官を任命して守備隊を置いた。
彼は、初めて「征服地の遠隔行政」を行ってメソポタミアを統一した。
こうしてアッカド王国は、都市国家の枠を超えて広い地域を支配する、最初の領域国家となった。
(ただし王国の首都の所在地は、未だわかっていない)
●バビロニア文明
イシン・ラルサ時代とバビロン第1王朝時代は、
アムル人(セム語派)による権力闘争の時代であり、
バビロン第1王朝が生き残った。
ハンムラビ法典で有名なハンムラビ王は、バビロン第1王朝の第六代国王。
彼の治世下でバビロン第1王朝はメソポタミアを統一した。
バビロン第1王朝滅亡後、カッシート人によってバビロンに新しい王朝が創設された(カッシート王国)。
カッシート王国滅亡後は、イシン第2王朝(民族系統は不明)がイシンからバビロンに遷都してバビロニアを支配した。
イシン第2王朝でも要職にとどまったカッシート人は、もともとは異民族だった。
しかしバビロニアの文化に完全に同化。
さらにシュメール人の文学作品の編纂などバビロニアの文化の継承・発展に貢献した。
また、イシン第2王朝のネブカドネザル1世は、カッシート王国滅亡時にエラムによって奪われていたバビロンの都市神マルドゥク神の神像をエラムから取り戻している。
新バビロニア帝国(時代)は短命に終わっているが、
ネブカドネザル2世はバビロニア文明の継承に大きな足跡を残している。
彼の治世中の出来事としては、エルサレム陥落とバビロン捕囚が有名だ。
ネブカドネザル2世は、この遠征で得た財宝でバビロンを再建。経済的な繁栄をもたらしている。
●アッシリア文明
Creative Commons Attribution-Share Alike 4.0 International https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Ashurbanipal_Lion_Hunt.jpg
画像は、アッシュールバニパルが建てたニネヴェの北宮殿の壁にあったレリーフ(浮彫)。
大英博物館所蔵だけど、このレリーフを含む「特別展」を見た美術ライター塚田さんの記事が秀逸!!
アッシュールバニパル死後、なお四人の王が即位したらしい。
しかし、事実上「アッシリア帝国」はアッシュールバニパルの死で崩壊した。
「アッシリア帝国」は…
アッシュル・ナツィルパル二世(在位:前883~859)とシャルマネセル三世(在位:前858~824)の治世で始まった。
「都市国家アッシリア」は交易で富を手に入れていたが、
「アッシリア帝国」は遠征(略奪)で富を入手する「軍事的征服国家」に変貌した。
首都ニムルドやニネヴェの宮殿建築や美術品の背景には、そんな血なまぐさい現実があったのである。