ゆうぞう⭐高校世界史を学び直す

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灌漑農業‐エジプトとメソポタミアは全く違う!

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知っているつもりでも、知らない言葉は沢山ある。
「灌漑」も、そうだ。

辞書には
「水路を作って田畑に必要な水を引き、土地を潤すこと」
と、ある。

正確に言えば…
灌漑とは、排水もセットになった「灌排水システム」のこと。

だから灌漑農業は
河川などの水を「管理して」行われる農業だ。

高校世界史で
灌漑農業が話題になる地域は
メソポタミアとエジプト。

でも…

メソポタミアとエジプトでは
「河川」が農業に与える影響が全く異なり
これが灌漑方法の違いになっている。

メソポタミアは、水路式灌漑(周年式灌漑)で
エジプトは、貯留式灌漑だ。

技術的には水路式灌漑の方が高度であり
高校世界史の教科書でも、その違いはちゃんと意識している。
(山川出版『詳説世界史B』) 

  • 「灌漑農業が発達したメソポタミア南部では~」
  • 「エジプトではナイル川の増減水を利用して農業が行われた」

ナイル川に「氾濫」はなかった?

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上の画像は、ギザの三大ピラミッド近くで19世紀に撮影された。
ナイル川の「氾濫期」の様子だ。

ナイル川の水位は5月頃から「じわじわ」と上がって
秋になると「じわじわ」と下がっていく。

だから…

「洪水」とか「氾濫」という言葉は、本当はふさわしくない。

「エジプトではナイル川の増減水を利用して農業が行われた」
という教科書の表現は、適切なのである。

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「氾濫期」に水につかる場所は、上図②の沖積地。

ここは耕地になる場所なので
人々は小高い所や「③低位砂漠」のふちに住む。
水位が高いときは船を使って行き来した。

農民にとって耕地が冠水する時期は、農閑期。
水が引いた後の11月に種を蒔き、収穫は翌年の4~5月初旬。

つまり、収穫が終わった後に「氾濫期」がやってくるわけだ。

このように…

ナイル川は、周期的(定期的)に増減水した。

●エジプトの「貯留式灌漑」とは?

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ナイル川の「氾濫」は、自然の恵み。

古代エジプト人にとって
堤防やダムで「氾濫を防ぐ」という
「治水」の発想はなかった。

ただし、運河(灌漑水路)を作って
水を引き込んだり貯めたりして
「氾濫」を有効に利用する工夫はした。

ナイル川「氾濫」の水量には
変化があったからだ。

エジプトの「貯留式灌漑」とは
この「工夫」だ。

具体的に説明しよう。

9月から10月始めにかけて
ナイル川の氾濫(溢流)は最高水位に達する。

このとき…

沖積地のはずれに向かって掘り進めた運河(灌漑水路)の水門を閉じる。
運河から枝分かれした支線水路を通して、水は耕地にゆきわたる。

その後、ほぼ60日間にわたって耕地の上に水を滞留させる。
60日後、水門を開いて水をナイル川に戻す。

60日間の湛水で沈泥(シルト)を沈積させ
排水によって耕地の塩化物を洗い流す。

これが、エジプトの貯留式灌漑(貯留式灌排水システム)だ。

沈泥の肥効だけでなく
湛排水による脱塩効果は
乾燥地の農業にとって大きな利点があった。

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このファイルはCreative Commons Attribution 2.0 Genericライセンスの下でライセンスされています

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Nile_Flood_plain_limits_(2009).jpg

上の写真は、2009年に撮影された。

アスワンダムが建設されても
ナイル川の沖積地と砂漠に「境界」はある。

エジプトでは
今でもナイル川の「溢流」が届くところまでが耕地で
その先は荒れ地なのである。

メソポタミアの地形

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メソポタミア」とは…
ティグリス・ユーフラテス川の流域とその周辺部のこと。

メソポタミアアッシリア(Assyria)
メソポタミアバビロニア(Babylonia)という。

上の地図で着色強調された地域が「バビロニア」だ。
(青い線は、推定の河川水路)

バビロニアニップルを境にして
北部をアッカド、南部をシュメールという。

ウル・ウルクなど、メソポタミア文明
シュメールの都市国家から始まっている。

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メソポタミアの地形は…

上の断面図でいえば
「台地」がアッシリア
沖積平野」がバビロニアだ。

ティグリス川は流れが速く
春には急激に増水・氾濫して灌漑には不向きだった。

だから古代には、ティグリス川に沿って大きな町が発達することはなかった。

ユーフラテス川は流れはゆるやかであったが
枝分かれをして河口付近では沼沢など「湿地」を形成。

強い日差しを受けて蒸発したりして
実際はその水がペルシア湾に注ぐことはなかったと考えられている。

ティグリス川よりゆるやかであったが
ユーフラテス川も氾濫を起こした。

そして氾濫のたびに流れを変え
新たな「自然堤防」をつくった。

ふだんのユーフラテス川は
過去の氾濫で出来た自然堤防の間を流れた。

つまり、周辺の土地より高い所を流れる「天井川」で
氾濫したときの被害も大きかった。

メソポタミアの自然堤防

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「自然堤防」とは
氾濫した川が運んだ粗い沈泥が堆積して出来た自然の堤防のこと。

ティグリス・ユーフラテス川の沈泥の量はナイル川の3~5倍で、
自然堤防の規模も大きかった。

高さは2~3メートル。
幅は水路と両側の自然堤防をあわせて2~3キロメートルに及んだ。

上の断面図が示すように…

自然堤防と隣接したゆるやかな傾斜地が耕地となり
麦(穀物)はゆるやかな傾斜地で栽培された。

人々は自然堤防に取水口をつくり
灌漑用水路を設けて傾斜地に水を引いた。

水は耕地から「水はけの悪い窪地」や「湿地」に流れ込み
元に戻ることはなかった。

ここがエジプトの「貯留式灌漑」と違うところ。

ナイル川は沖積地(耕地)からみて下を流れていたが
ユーフラテス川は耕地の上を流れる天井川だからだ。

メソポタミア水路式灌漑とは?

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上図は、ユーフラテス川の水位変化を
グラフ化したもの。

ユーフラテス川の水位は
春に上昇のピークを迎え、秋になると低水位で安定した。

氾濫は水位がピークを迎えた後の6月に多かったが
定期的に増減水するナイル川とは違って
ユーフラテス川の氾濫は時期・流水量とも定まっていなかった。

ティグリス川の洪水と合流したり、上流の雪解けが多かったりすると
大量の流水が自然堤防を破壊。

その結果、流路が変われば旧水路での灌漑は不可能になり
人々は集落を捨てて離散した。

そのような壊滅的氾濫でなくても
溢流はため池や灌漑用水路に貯めておかれた。

春は麦の収穫期なので耕地の冠水を防ぐ必要があったし
天井川とはいえ水位が上昇する氾濫期の後に水を引くことは困難だったからだ。

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https://www.researchgate.net/publication/271898791_Traditional_Dam_Construction_in_Modern_Iraq_A_Possible_Analogy_for_Ancient_Mesopotamian_Irrigation_Practices

上図は、メソポタミアの灌漑システムの模式図。
かまぼこ形の住居の周りには、果樹園や菜園が広がり
耕地(麦畑)は線状で示されている。

灌漑用水路は、Ⅰ~Ⅲの3系統になっている。
Bの水門を開けばⅡ系統の用水路に水が導かれ
Cの水門を開けばⅢ系統の用水路に水が引かれる。

Aは取水口であり、春に取り入れられた溢流は
F(ため池)に貯められた。

Fがいっぱいになると
B・Cの水門が開けられて用水路に水が貯められた。

耕地(麦畑)で灌漑用水が必要になるのは
秋の犂耕・播種とそれ以降だからだ。

またティグリス・ユーフラテス川が運ぶ泥土は
量が多い(ナイル川の3~5倍)だけでなく

塩化物も多くてナイル川流域のように
溢流をそのまま耕地へ入れることはできなかった。

溢流はため池や灌漑用水路に貯めて
泥土を沈殿させる必要があった。

したがって、ため池や用水路の浚渫(しゅんせつ)は必須で
新しく作り直すことも求められた。

このように…

メソポタミア水路式灌漑は
河床のわずかな高低(落差)を利用して
溢流を管理する高度な灌排水システムだった。

このシステムは、強力な政治的統一を前提として
莫大な労働力と村落共同体の規模を超える
「管理の集中」によって維持された。

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上図は、ニップル出土の粘土板に描かれていた
播種(種まき)の様子である。

耕起用の犂には
ろうと状の「条播器」が取り付けられている。

メソポタミアの農業は
条播技法の開発という意味でも先進的だった。

まず第一に注意しなければならないのは灌漑である。
畑に水が入りすぎないよう水をせき止めたら、耕地に水が平均に行き渡るように気を配らねばならない。

次にはその湿った耕地を地ならしして、牛やその他の獣に荒らされないように、その四隅に囲いをしなければならない。

犂耕と播種は同時に行われ、鋤に取り付けた種子蒔き用の細長い管から犂耕と同時に種子を畝にこぼしてゆく。
そのとき、種子はむらのない一定の深さに蒔かれ、畝には麦の発芽をおさえる土塊のないようにしておかねばならない。

発芽したら、野ねずみや鳥などが生育する麦を荒らさないように注意せねばならない。
麦の生長の度合いに合わせて三回から四回の灌漑をおこなう。

収穫の時が訪れると、農夫は三人が一組になって穂がその重みで垂れるのを待たないで、まだピンと立っているときに刈り取らねばならない。
それがちょうど刈り時なのである。

それから脱穀が行われるが、その作業は麦の茎をを粗い板で前後にこく方法でなされ、穀粒に混ざった泥やゴミを払い落とした。

 金 治権『オリエント史と旧約聖書第一巻人類の誕生・文明の発生』

耕地は耕区に分かれていて
耕区ごとに耕作された。

収穫が終わると、翌年は休耕になった。
すなわち耕作は二年に一回の「隔年耕作」であり
それは地味の枯渇や塩害を防ぐためであった。

メソポタミア沖積平野で…

シュメール人は過酷な集団労働によって
高度な灌排水システムの構築に成功した。

しかし「高度な灌排水システム」は
強力な政治的統一(安定)を前提とするものだった。

安定を欠いて灌排水のバランス維持に失敗すれば
耕地は塩化し、泥土は用水路を塞いで耕地は不毛の荒地となる。

課税記録によると…

大麦の収穫量は
前2400年頃にヘクタールあたり2520リットルあった。

しかし前2100年頃のウル第3王朝時代になると
1350リットルに減少。
バビロン第1王朝時代の前1700年頃には
900リットルに減少した。

現在、砂漠の中に埋没しているシッパル・ニップル・ウル・ウルクなどの諸都市は
もともとユーフラテス川の河岸に建設されていたのである。

●参考文献

吉村作治/後藤健 編『NHKスペシャル四大文明 エジプト』(2000年)NHK出版
小泉龍人『都市の起源』(2016年)講談社
松本健 編『NHKスペシャル四大文明 メソポタミア』(2000年)NHK出版
前川和也『図説メソポタミア文明』(2011年)河出書房新社
大城道則『古代エジプト文明』(2012年)講談社
中田一郎『メソポタミア文明入門』(2007年)岩波書店
中島健一『河川文明の生態史観』(1997年)校倉書房
馬場匡浩『古代エジプトを学ぶ』(2017年)六一書房