語族・語派でまとめる古代オリエント史
世界史の教科書を読んでいると
「○○人」という言葉がたくさん出てくる。
特に古代オリエント史に多い。
山川出版『詳説世界史B』
第1章「オリエントと地中海世界」に登場する
「○○人」は全部で17もある!!
シュメール人
アッカド人
アムル人
ヒッタイト人
カッシート人
ヒクソス
カナーン人
海の民
アラム人
フェニキア人
ヘブライ人
イラン人(ペルシア人)
アム川上流のギリシア人(バクトリア人)
遊牧イラン人(パルティア人)
農業に基礎を置くイラン人
エフタル
突厥(とっけつ)
ヒクソスや海の民、そしてエフタルや突厥は
「○○人」と呼ばないけど
「ヒクソス」人
「海の民」人
「エフタル」人
「突厥」人
…と呼んでも
内容の理解に問題はないからね。
これら17個の用語
全てに当てはまる
わけではないけど
「○○人」というときは…
「シュメール語」を話していた集団が
「シュメール人」というように
“言語”によって人間集団を分けている場合が多い。
第1章「オリエントと地中海世界」に登場する
「○○人」を“言語”によって分類する!!
これが、今日のテーマだ。
●語系?語族?語派?
同じ“言語”を話す人間集団を
「○○人」ではなく「○○語系」
ということがある。
上の表は山川出版『詳説世界史B』から転載した
「世界の諸言語の系統分類表」だ。
「語族」も「語派」も
同じ言語を共通の起源に持つ「言語のグループ」
なんだけど…
歴史学の本では「語族」「語派」を
「言語のグループ」ではなく
同じ言語を話す「人間のグループ」
の意味で使う場合が多い。
●「世界の諸言語の系統分類表」で第1章を分類する
第1章「オリエントと地中海世界」
に登場する「○○人」が
話していた言語の多くは
「世界の諸言語の系統分類表」でいえば
「インド・ヨーロッパ語族」と
「アフロ・アジア語族」の
「セム語派」と「エジプト語派」だ。
例外は
シュメール語とカッシート語。
この2つの言語の帰属はわからない。
だから
シュメール語やカッシート語を
話していた人たちの起源も
わからない。
教科書も両者について
「民族系統不明」
としている。
●ほとんどは「セム語系」の人々
上の画像は
古代オリエント諸国の興亡を
まとめたもの。
エジプトは
王国としての「繁栄期」を
古王国・中王国・新王国と呼ぶ。
初期王朝期とウル第3王国時代に支配者となったシュメール人と
カッシート王国を開いたカッシート人は
民族系統が不明。
それ以外は…
アッカド人も
イシン・ラルサ・バビロンの支配者となったアムル人
そしてアッシリア人も
全てセム語系の人々だ。
違うのは
ヒッタイト人とミタンニ人
教科書は
「インド・ヨーロッパ語系のヒッタイト人は」
と明記しながら
ミタンニ人については触れていないが…
ミタンニ王国の支配者は
「マリヤンヌ」と呼ばれる
インド・ヨーロッパ語系の人々。
ミタンニ王国の歴史は
インド・ヨーロッパ語系の人々を
支配者にして始まった。
前二千年紀(前2000~1001年)後半
北メソポタミアから東地中海岸
そして小アジアにかけての地域の支配者は
「インド・ヨーロッパ語系」の人々だった。
しかし
教科書だけを読んでいると
古代オリエントの歴史に
いきなり
「インド・ヨーロッパ」語系の人々が登場するわけで
戸惑わずにはいられない。
●「インド・ヨーロッパ語系」の大移動とは?
まず上の地図を見て欲しい。
濃いピンクで塗られているのは
“黒海とカスピ海の北側に広がる草原地帯”だ。
“そこ”から矢印が
ヨーロッパ・小アジア・インド
さらには中国西部にまで広がっている。
この地図は…
“そこ”に同じ言語を話していた
「インド・ヨーロッパ語系」の人々がいて
“そこ”から分かれて世界中に広がっていった。
…ということを、表した地図なのだ!
インド・ヨーロッパ語系の人々は
前三千年紀(前3000~2001年)には
“そこ”で牧畜生活をしていた。
彼らは
インド・ヨーロッパ祖語(印欧祖語)
という同じ言葉を話していた。
しかし…
インド・ヨーロッパ祖語(印欧祖語)
の実態は解明されていない。
わかっていることは…
同じ言葉を話していた集団が
「ヨーロッパに向かった集団」と
「ヨーロッパには行かなかった集団」
に分かれたことだ。
●「インド・ヨーロッパ語系」の大移動を解説
① 前3千年紀末から前2千年紀の初め
「黒海とカスピ海の北側に広がる草原地帯」から
移動して東西に分かれた集団があった。
東に向かった
「インド・ヨーロッパ語系」の人々は
タリム盆地の北辺に定着。
トカラ語を話すトカラ人となった。
西に向かった
「インド・ヨーロッパ語系」の人々は
またペロポネソス半島に定着した人々は
ギリシア語を話すアカイア人となった。
(前1400年頃にアカイア人はクレタ島に侵攻。
クレタ文明を滅ぼしている。)
② 前2千年紀中頃(前17~15世紀)
後にゲルマン語系やイタリック語系となる人々も
「黒海とカスピ海の北側に広がる草原地帯」から
ヨーロッパに移動した。
「インド・ヨーロッパ語系」の人々が
ヨーロッパに向かった集団とそれ以外の集団に
決定的に分かれたのだ。
「それ以外の集団」が
「インド・イラン語系」であり
彼らを「アーリア人」という。
アーリア人は
「インド系アーリア人」と
「イラン系アーリア人」に分かれた。
インド亜大陸に進出して定住した人々が
「インド系アーリア人」であり
③ 前1千年紀の初め(前9世紀頃)
イラン系アーリア人によって
騎馬による遊牧という「生活形態」
が初めて考え出された。
「騎馬遊牧民」の誕生だ。
この生活形態を受け入れるか否かによって
イラン系アーリア人は
「遊牧民」と「定住民」に分かれることになった。
(モンゴル高原の匈奴が、サカ人の影響を受けて
騎馬遊牧民になったのは前5世紀頃だ)
この頃には
後にケルト語系・スラヴ語系・バルト語系と呼ばれるようになった
「インド・ヨーロッパ語系」の人々もヨーロッパに移動している。
●「イラン系アーリア人」と古代オリエント史
馬と二輪戦車(チャリオット)の活用が始まった
前1500年頃から
古代オリエントを政治的・文化的に主導する人々だった。
彼らの活躍は…
中央アジアでは
テュルク化が進む10世紀まで続いた。
言い換えると…
前612年のアッシリア帝国滅亡後の
メディア王国の西アジア支配から
アケメネス朝ペルシア
パルティア王国
ササン朝ペルシアに至る1200年間は
「イラン系アーリア人」が古代オリエントの政治的覇権を握った時代だったのである。
●参考文献
・ディヴィット・W・アンソニー/東郷えりか(訳)
『馬・車輪・言語』筑摩書房(原著2007年)
・クリストファー・ベックウィズ/斉藤純男(訳)
『ユーラシア帝国の興亡』筑摩書房(原著2009年)
・小川英雄『古代オリエントの歴史』慶応大学出版会(2011年)