メソポタミア文明は四つある!
中学校の歴史の教科書には、必ず登場する「四大文明」
その中でも最古の文明が「メソポタミア文明」。
だけど…
高校世界史の教科書を探しても
「メソポタミア文明とは何か」という説明は
ない!!
メソポタミア文明って、何だろう?
ウィキペデイアで「メソポタミア」を検索すると…
「古代メソポタミア文明は、メソポタミアに生まれた複数の文明を総称する呼び名」とある。
なるほど、でも…
「複数」って、いくつだろう?
メソポタミアの3000年の歴史のなかには、古い順に、
シュメール・アッカド・バビロニア・アッシリアという
まったく異なる四つの文明が盛衰している。その四つは、場所・民族・出土品など、すべての点において異質なのだ。
メソポタミア文明は「四つ」あるんだ。
●4つの文明を年表で確認する
【シュメール文明】
(前3500年頃~前2004年頃)
(前2112年頃~前2004年頃)
上の年表で
「編みかけになっている」四つの部分。
・ウルク期
・ジェムデド・ナスル期
・初期王朝期
・ウル第3王国時代
ここは「シュメール人」が歴史の担い手だった時期。
ほぼ「シュメール文明」の頃と重なる。
シュメール文明の初期王朝期とウル第3王国時代に
挟まれているのが「アッカド王国時代」。
ここが「アッカド文明」に当てはまる。
【バビロニア文明】
(前1830年頃~前1026年頃)
(前625年頃~前539年)
・イシン・ラルサ時代
・バビロン第1王朝時代
・カッシート王国(時代)
・イシン第2王朝(時代)
・新バビロニア帝国(時代)
イシン・ラルサ時代とバビロン第1王朝時代を併せて
「古バビロニア」時代という。
中心はハンムラビ王の治世があったバビロン第1王朝時代。
カッシート王国(時代)とイシン第2王朝(時代)は、
いずれもカッシート人が要職にあった。
そのため併せて「カッシート時代」ともいう。
新バビロニア帝国(時代)は短命に終わっている。
しかし、ネブカドネザル2世はバビロニア文明の保護者であり無視はできない。
それどころか…
彼が残した建築遺構にはバビロニアを代表する建造物として名高いイシュタル門や、バベルの塔のモデルとなったともされるマルドゥク神殿エサギルのジッグラト跡などが含まれ、
また現在発掘調査が行われているバビロン市の遺構は大部分が彼の治世のものである。
【アッシリア文明】
(前883年頃~前612年)
アッシリア王国は前2000年頃に、アッシュルに生まれた都市国家を起源とする。
その歴史は1500年間に及ぶが、「アッシリア文明」は、「アッシリア帝国時代」の首都ニムルドやニネヴェの宮殿建築や美術品に代表される。
「アッシリア文明」とは、アッシリア帝国時代の幕開けであるアッシュル・ナツィルパル二世から帝国の滅亡までをいう。
●シュメール文明
上の画像は、初期王朝期Ⅲ期の王墓から出土された。
ウルの旗章(スタンダード)と呼ばれる。
貴石や貝殻で装飾され、当時の生活が生き生きと描かれている。
シュメール人は、暦法(太陰暦・太陰太陽暦)や六十進法を発達させ、車軸を発明して印章を普及させた。
印章には絵文字が刻まれ、絵文字からは楔形文字がつくられ、その後オリエント世界の多くの言語で使われた。
シュメール人は、南メソポタミア南部の地(シュメール)に、ウル・ウルク・ニップルなど多くの都市をつくった。
(しかし彼らの民族系統は不明であり、どこから来たのかもわかっていない)
文明とは都市化であり、都市生活のなかで諸文化が融合した生活様式である。
メソポタミア文明は、シュメール人がユーフラテス川下流域の「シュメール」に築いた都市国家での「シュメール文明」から始まった。
●アッカド文明
サルゴン王は征服した諸都市に、アッカド人(セム語派)の長官を任命して守備隊を置いた。
彼は、初めて「征服地の遠隔行政」を行ってメソポタミアを統一した。
こうしてアッカド王国は、都市国家の枠を超えて広い地域を支配する、最初の領域国家となった。
(ただし王国の首都の所在地は、未だわかっていない)
●バビロニア文明
イシン・ラルサ時代とバビロン第1王朝時代は、
アムル人(セム語派)による権力闘争の時代であり、
バビロン第1王朝が生き残った。
ハンムラビ法典で有名なハンムラビ王は、バビロン第1王朝の第六代国王。
彼の治世下でバビロン第1王朝はメソポタミアを統一した。
バビロン第1王朝滅亡後、カッシート人によってバビロンに新しい王朝が創設された(カッシート王国)。
カッシート王国滅亡後は、イシン第2王朝(民族系統は不明)がイシンからバビロンに遷都してバビロニアを支配した。
イシン第2王朝でも要職にとどまったカッシート人は、もともとは異民族だった。
しかしバビロニアの文化に完全に同化。
さらにシュメール人の文学作品の編纂などバビロニアの文化の継承・発展に貢献した。
また、イシン第2王朝のネブカドネザル1世は、カッシート王国滅亡時にエラムによって奪われていたバビロンの都市神マルドゥク神の神像をエラムから取り戻している。
新バビロニア帝国(時代)は短命に終わっているが、
ネブカドネザル2世はバビロニア文明の継承に大きな足跡を残している。
彼の治世中の出来事としては、エルサレム陥落とバビロン捕囚が有名だ。
ネブカドネザル2世は、この遠征で得た財宝でバビロンを再建。経済的な繁栄をもたらしている。
●アッシリア文明
Creative Commons Attribution-Share Alike 4.0 International https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Ashurbanipal_Lion_Hunt.jpg
画像は、アッシュールバニパルが建てたニネヴェの北宮殿の壁にあったレリーフ(浮彫)。
大英博物館所蔵だけど、このレリーフを含む「特別展」を見た美術ライター塚田さんの記事が秀逸!!
アッシュールバニパル死後、なお四人の王が即位したらしい。
しかし、事実上「アッシリア帝国」はアッシュールバニパルの死で崩壊した。
「アッシリア帝国」は…
アッシュル・ナツィルパル二世(在位:前883~859)とシャルマネセル三世(在位:前858~824)の治世で始まった。
「都市国家アッシリア」は交易で富を手に入れていたが、
「アッシリア帝国」は遠征(略奪)で富を入手する「軍事的征服国家」に変貌した。
首都ニムルドやニネヴェの宮殿建築や美術品の背景には、そんな血なまぐさい現実があったのである。