ゆうぞう⭐高校世界史を学び直す

佐藤優『読書の技法』を読み,「高校世界史」の“学び直し”を決意するが,神教科書の「難しさ」に心が折れそうに.そこで…図書館通いと歴史書の乱読を開始♪勉強を始めました🖍現在は「知識のアウトプット」を目指し「高校世界史の教科書を解説する」 YouTubeチャンネルを公開中です‼

君はジッグラトをみたか?

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高校世界史の教科書は、
「オリエントと地中海世界」から始まる。

最初に掲載されている写真が
ウルのジッグラト

ジッグラド(聖塔) シュメール人都市国家ウルの遺跡にある、復元された煉瓦づくりの塔。
王や神官は、正面と側面から階段をのぼったところにある祭壇で年の神をまつった。
『詳説世界史B』山川出版

頂上にウルの守護神である月の神をまつる神殿があった。基壇は当時のもの。
『世界史B』東京書籍

でも…
「復元」って、誰がどこを復元したんだろう?


ジッグラトで検索しても、知りたい情報には出会わない。
英語ならと思って、Zigguratで検索。

あった!

ウィキペデイアも和文英文では、
ずいぶんと内容が違うじゃないか!

遺跡は1920年代と1930年代にレナードウーリー卿によって発掘されました。
1980年代のサダムフセインのもとで、それらはファサードと記念碑的な階段の部分的な再建によって包まれました。
ジッグラトは1991年の湾岸戦争で小火器の砲撃によって損傷を受け、その構造は爆発によって揺さぶられました。
近くに4つの爆弾クレーターが見られ、ジグラットの壁は400を超える弾痕によって傷つけられています。

「復元」を命じたのは、サダムフセイン
「復元場所」はファサードと階段。
   (ファサードとは、建物の正面外観のこと)

NHKスペシャル 四大文明 メソポタミア

この番組は、書籍化されている。
松本建 編著『NHKスペシャル 四大文明 メソポタミア』(2000年)

ウルのジッグラト取材の様子を引用する。

遺跡の手前でイラク軍による検問を受ける。

緊張しつつ検問を通過して遺跡の中に入ると、目の前に、天に向かってそそり立つ巨大なジッグラトがそびえていた。

 

大きさは基礎の部分が61×41メートル。
現在の高さは15メートルもあり、頂上に向かって正面、側面に長い階段が設けられている。

 

ウルのジッグラトは、現在二層の階段状だが、もともとは三層であり、
頂上には月の神ナンナルの神殿が築かれていたという。

 

人類の遺産ウルは湾岸戦争による痛々しい傷跡をとどめていた。
ジッグラトの正面左側と、左側側面に、400を超える穴があいている。

ある場所は連続して、ある場所は点々と散らばりながら、
穴の直径は2センチに満たないものから10センチの大穴まであった。

現地の係官によると、多国籍軍の戦闘機から発射されたミサイルが近くに着弾し、
破片が飛び散ってできたものという。

 

また、ウル周辺に駐屯したアメリカの兵士らは遺跡を掘り返し、
不届きにも「土産物」を持ち去ってしまったとも語る。

 

頂上に上ると、城壁に囲まれた都市の遺構全体が見渡せる。

都市は南北1030メートル、東西690メートルの卵形をしていた。

多くの遺構が崩れ、土に埋もれ、あるいは風化していても、
広大な遺跡を目の前にすると、
太古の都市のありようがうっすらと瞼の裏側に浮かび上がってくる。


なるほど!
ウィキペデイアとも合致する。

いいなぁ。上ったんだ。
2000年といえば、湾岸戦争の後、イラク戦争の前になる。
今はどうなんだろう?

●世界一美しいウルのジッグラト

進め!中東探検隊」の記事に写真があった。

「現在は階段を登ることはできない」とある。
写真を見ると、観光客らしい男性が写真を撮っていて、
階段の途中にはフェンスらしいモノが見える。

そうかぁ。上れないんだ…。

でも「当時のもの」って、
どの部分が「当時のもの」なんだろう?

そう思ってウィキペディアの写真を
もう一度よく見る。

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 あれ!
頂上に人がいる。
それに頂上の部分は、ゴツゴツしていて階段や正面部分と違う。

「1980年代のサダムフセインのもとで、それらはファサードと記念碑的な階段の部分的な再建によって包まれました」

そうか、このゴツゴツした部分が「包まれた部分」
ということは「当時のもの」じゃないか?

 

●ウルのジッグラト(復元前)

ウィキペデイアに…
「遺跡は1920年代と1930年代にレナードウーリー卿によって発掘されました」
とあるなら、写真があるかもしれない。

今度は、ウィキメデイアコモンズを探してみた。

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以下全ての画像はパブリックドメインです

 

出所はアメリカ議会図書館。日付は1932年。

これかぁ!
でも、ウィキペディアの写真には人が写っていたけど
誰が登ったんだろう?

そう思ってウィキメデイアコモンズを見ていたら、
ウィキペディアと同じ写真があった。

「2005年にイラクのアリ空軍基地でジッグラトで撮った写真です。米軍兵士が撮影」

そうか!
この写真は、イラクアメリカに占領されていたときに撮ったんだ。

ウィキメデイアコモンズを探すと
出てくる、出てくる!

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第17消防旅団の米兵が2010年5月18日、偶発作戦基地追加部近くのイラク、ウルのジッグラトの階段を上っていきます。

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2010年5月19日

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2007年1月19日、米国国防長官ロバートゲイツ国防長官がイラクのウルのジグラットを巡るツアー。

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Gene Gen中尉、Renuartは2007年1月19日、イラクのウル大ジグラットの頂上から風景を眺めています。

 

頂上に上ると、城壁に囲まれた都市の遺構全体が見渡せる。
都市は南北1030メートル、東西690メートルの卵形をしていた。
多くの遺構が崩れ、土に埋もれ、あるいは風化していても、広大な遺跡を目の前にすると、太古の都市のありようがうっすらと瞼の裏側に浮かび上がってくる。

ゲイツ国防長官やGene Gen中尉、それにNHKのクルーがみた景色。

僕も、ちょっぴり見た気になった。

メソポタミアを中心とする古代オリエント興亡史

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高校世界史の教科書は、先史時代の次を
古代オリエント世界」とか「オリエント世界の成立」という項目から始めている。

オリエントとは…

「今日の中東とよばれる地方をさす」(『詳説世界史B』山川出版)
西アジアからアフリカ北東部に広がる乾燥した地域」(『世界史B』東京書籍)

言い換えれば
メソポタミアから小アジア、東地中海岸・エジプトにかけての地域」だ。

上の年表は「古代オリエント興亡史」をまとめたものだけど、
権力闘争の中心がメソポタミアであったことが良くわかる。

 

【前6千年紀】前6000年~5001年
 南メソポタミア南部で灌漑農業が始まる

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前6000年頃に…

メソポタミアティグリス川流域のサマッラで初歩的な灌漑農業が始まった。
(上の地図には描かれないけど、サマッラはアッシュール(Assur)の南にあった)
これが「サマッラ文化」。

ちなみに…

「何々文化」とは、「時代」を表すこともある。
「何々」とは、出土品の「特徴」が確認された地名などから命名される。

「特徴」は空間上だけでなく、時間上のまとまりをもつ。
だから「何々文化」とは、「何々文化期」や「何々期」と言い換えて
時代区分にも使われるんだ。


前5500年~5300年頃になると…

サマッラ文化の影響を受けて、北メソポタミアのジャジーラ地域(Assurの北)で
牧畜をともなった農業が始まった。
これを「ハラフ文化」という。

「ハラフ文化」と同じ頃…
メソポタミア南部に居住した最初の農耕民の文化は、
「ウバイド文化」と呼ばれている。

(初めてその文化に特徴的な土器が発掘されたウルに近いテル・アル・ウバイド遺跡から名付けられた)

ウバイド遺跡のある南メソポタミ南部は、
山地や丘陵もなく
ひたすら平坦で広大な沖積地が存在する場所だ。

「上の地図」を見てほしい。

メソポタミア」は…
茶色で着色された「南メソポタミア」の「バビロニア(Babylonia)」と
「北メソポタミア」の「アッシリア(Assyria)」の二つの地方に分けられる。

さらに「バビロニア(Babylonia)」は…
ニップル(Nippur)を境に、北部を「アッカド」南部を「シュメール」という。

ウバイド遺跡は
「南メソポタミ南部」の「シュメール」と呼ばれる地にある。

「シュメール」の年間降水量は100ミリ以下。
農耕はもちろん灌漑(かんがい)農業。
日々の生活用水も河川に頼るしかない。

なぜそんな過酷な場所に移動したのか?

灌漑利用の穀物生産は、天水農耕と比べて
単位面積あたりの収穫量が数倍から数十倍(!!)になるからだ。

ウバイド文化の担い手はシュメール人だともいわれるが、わからない。
ウバイド人と呼ぶこともある。
どちらにしても民族系統は不明だ。

 

 【前5千年紀】前5000年~4001年
 ウバイド文化が広がり
 「都市的な性格を持ち始めた集落」が現れるf:id:akanezora1234:20200506134148j:plain


前4500年頃には…

メソポタミア南部「シュメール」で
始まった灌漑農業(ウバイド文化)は
西アジア全域に広がった。

「広がった」といっても…

西アジア全域でシュメール(南メソポタミア南部)で行われていた
灌漑農業が行われるようになったわけじゃない。
シュメールの自然環境は、シュメールにしかないから。

「広がった」とは…
「各地がシュメールを中心とする物資集散システムに取り込まれた」
ということ。

灌漑農業の成功によって
天水農耕と比べて数倍から数十倍に達する穀物が獲れるようになった。
穀物を飼料に羊など多くの家畜も飼育できるようになった。

逆に言えば
穀物と羊毛製品という「余剰生産物」しか、シュメールには「資源」がない。

「広がった」とは…
余剰生産物を管理して必要なモノは外部から交易で入手する「大規模な物資集散システム」
が広まったということ。

このシステムの出発点は、余剰生産物の「管理」
こうして一般集落の中から、余剰生産物(麦・羊毛製品)を公共的な倉庫に収める
「都市的な性格を持ち始めた集落」が現れるようになった。

代表的なところでは、ウル・ウルクニップルだ。

 

【前4千年紀】前4000年~3001年
 「都市」が誕生して文明が始まり
 「都市国家」が分立するf:id:akanezora1234:20200506134158j:plain


前4千年紀を「ウルク期」という。
ウルクとは、南メソポタミア南部(シュメール)の代表的都市。
ウルク期」は、「都市」が誕生して文明が始まり「都市国家」が分立する時代だ。


前3500年頃に…
ウバイド文化期の「都市的な性格を持ち始めた集落」から「都市」に発展した集落が現れた。
シュメールのウル・ウルクニップルが、代表的な都市だ。

都市とは…
神官・巫女・書記・商人・冶金師・土木技術者・兵士など、
多くの「一次産業に従事しない人たち」だけが住む場所のこと。

言い換えれば…
周辺集落や遠隔地から大量のモノや情報が集まり、
工業製品が生産される経済活動の中心地だ。

神殿を中心として形成され、
周辺に多数の「序列化された従属集落」をもち、
城壁に囲まれて「守られる場所」でもある。

どんな遺構や遺物から「都市である」と判断できるのか?
小泉龍人『都市の起源』の基準が、明確でわかりやすい。

「都市計画」・「行政機構」・「祭祀施設」の全てを満たすものが「都市」
「都市計画」とは,城壁・街路・水利施設など
「行政機構」とは,宮殿・軍事施設・絵文字(組織の管理・運営のための記録システム)など
「祭祀施設」とは,神殿など.


前3100年頃になると…
シュメールのウル・ウルクニップルでは

王と呼ぶにふさわしい人物が支配者となり、
それぞれの都市自体が軍事的・政治的に独立した政体とみなしてよい状態、つまり国家になった。
それぞの「都市国家」は、互いに対等な政体として競合した。

文明の定義は難しいけど…
「文明とは都市化である」(伊藤俊太郎『文明の誕生』)
と思う。

だから「メソポタミア文明」は…
シュメール人がユーフラテス川下流域に築いた、都市あるいは都市国家を始まりとするものだ。

 

【前3千年紀】前3000年~2001年
都市国家の抗争から領域国家へf:id:akanezora1234:20200506134210j:plain

前3千年紀は、四つに分けられる。

・ジェムデド・ナスル期(前3100年頃~前2900年頃)
・初期王朝期(前2900年頃~前2335年頃)
アッカド王国時代(前2334年頃~前2154年頃)
・ウル第3王国時代(前2112年頃~前2004年頃)

ジェムデト・ナスル期はバビロニア全域に都市が広まった時代であり、
初期王朝期はⅠ期(前2900年頃~前2750年頃)・Ⅱ期(前2750年頃~前2600年頃)・Ⅲ期A(前2600年頃~前2500年頃)・Ⅲ期B(前2500年頃~前2335年頃)に細分されている。
…とはいえ、Ⅰ期~Ⅲ期Aの様子はほとんどわかっていない。


初期王朝Ⅲ期Bのシュメールには、
シッパル・キシュ・ニップルウルクウンマ・ラガシュなど20以上の都市国家が分立していた。
都市国家どうしは、交通路や領土をめぐって抗争を繰り返しながら規模を拡大していった。


シュメール人都市国家抗争を終わらせて
「統一」をもたらしたのは…
アッカド(セム語派)のサルゴン

前2334年にアッカド王国を建国して、メソポタミアを統一した。
(アッカド王国の都アッカドは、未発見!!)

サルゴン王は征服した諸都市に、アッカド人の長官を任命して守備隊を置く。
「征服地の遠隔行政」を最初に実行した国王だった。

こうしてアッカド王国
都市国家の枠を超えて広い地域を支配する、最初の「領域国家」となった。

アッカド王国は約180年間続いた後、五代国王の治世下に北東山岳地方から「グティ人」に侵入され滅亡した。


前3千年紀末、ウルクのウトゥヘガル王が「グティ人」の支配からシュメルを解放。
ウトゥヘガル王の将軍でシュメール人の「ウルナンム王」が「ウル第3王国」を興した。
ウルは「都市国家」ではなく、複数の都市国家支配下に組み込んだ「領域国家の首都」になった。

「ウルナンム王」の治世下
ウル第3王国では…

・最古の法典「ウルナンム法典」が発布され
・都市神を祀る神殿の近くにジッグラトと呼ばれる塔が建設された

ウル第3王国は
二代国王シュルギ治世下で全盛期を迎えた。

文民行政官が法や宗教関連事項を担当し、武官が軍事を担当する二重の管理組織があったことがわかっている。
つまり、統一された文書行政システム(官僚制)を確立させた。

アッカド王国で始められた中央集権体制は、ウル第3王国で完成したのである。

ウル第3王国は前2004年頃、東方からエラム人の侵攻を受けて滅亡した。
以後、シュメール人メソポタミア史に登場することはなかった。

 

【前2千年紀】前2000年~1001年
アムル人の諸王国から諸民族割拠の時代f:id:akanezora1234:20200506134219j:plain

前2千年紀は、四つに分けられる。

・イシン・ラルサ王国時代(前2017年頃~前1764年頃) 
・バビロン第1王朝時代(前1830年頃~前1595年頃)

 …ここまでが、前2千年紀の「前半」
「アムル人が各地で王国を築き、“異民族”の侵攻により滅んだ」時代だ。


・カッシート王国時代(前?年頃~前1155年頃)
・イシン第2王朝時代(前?年頃~前1026年頃)
 
…残りが「後半」
「“異民族”の王国が覇権を競い、ほぼ同じ頃に崩壊した」時代といえる。


●「前2千年紀前半」

アムル人(セム語派)は、前2000年前後の数百年間をかけてメソポタミア北部に定着。
やがて各地を支配した。

ウル第3王国からみれば…
「アムル人の侵攻によってイシンやラルサ、バビロンを奪われた」ことになる。

以下、その過程をまとめてみた。

前2017年 アムル人による「イシン王国」の建国
前1930年 アムル人による「ラルサ王国」の建国

     (都市国家「イシン」と「ラルサ」の抗争が始まる)

前1894年 アムル人のスム・アブムがバビロンに王朝を開く(バビロン第1王朝)
前1813年 アムル人のシャムシ・アダド1世がアッシリアを征服しアッシリア王として即位(シャムシ・アダド1世王国)
シャムシ・アダド1世は、その後マリ王国も征服して北メソポタミアを統一
前1794年 「ラルサ王国」が「イシン王国」を滅ぼす
前1792年 ハンムラビがバビロン第1王朝の6代目の王となる
前1781年 シャムシ・アダド1世の死(→シャムシ・アダド1世王国の崩壊)
前1764年 ハンムラビがラルサを併合
前1759年 ハンムラビがマリを破壊
前1750年 ハンムラビの死(→バビロン第1王朝の衰退)


「イシン王国」「ラルサ王国」
「シャムシ・アダド1世王国」
「バビロン第1王朝」
いずれも「アムル人の王国」だ。

イシン・ラルサ王国時代とは
メソポタミア南部(シュメール)にあった
都市国家「イシン」と「ラルサ」が抗争していた時代。

抗争を終わらせたのは
バビロン第1王朝の6代目の王ハンムラビ
ハンムラビ治世がバビロン第1王朝(古バビロニア王国)の全盛期。
メソポタミア全域を支配した。

シャムシ・アダド1世王国」とは
ハンムラビ王以前に北メソポタミアを支配した
アムル人のナプラヌムが興した王国だ。

イシン・ラルサ王国時代とバビロン第1王朝時代は、
アムル人による権力闘争の時代であり、バビロン第1王朝が生き残った。

そしてバビロン第1王朝は、アムル人とは全く違った敵を迎えることになる。
彼らはアムル人にとっては“異民族”であり、戦車という新兵器を操る強敵だった。

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前2千年紀に西アジアに侵攻した人々は、ヒッタイト人・ミタンニ人・カッシート人とよばれている。
彼らは、オリエントの文明世界がこれまで経験したことのない武器や武具をたずさえていた。
とりわけ、馬に引かせる戦車をもっており、強力な軍隊を組織していた。

本村凌二『馬の世界史』
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戦車兵が使っていた弓は、複数の材質を組み合わせて作られた射程距離の長い複合弓だった。
戦車兵は、戦車を走らせながら、密集隊形をとる歩兵を思いのままに狙うことができた。
戦車を引いて走る馬の方が人間の足より速かったから、戦車兵には歩兵の反撃を避け、敗走する敵を追走することが可能だった。

サイモン・アングリアム『戦闘技術の歴史 1 古代編』
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●「前2千年紀後半」

ヒッタイト人・ミタンニ人・カッシート人という“異民族”たちは、
メソポタミアに「カッシート王国」・北メソポタミアと東地中海岸に「ミタンニ王国」・アナトリアに「ヒッタイト王国」を相次いで建国した。

前1680年 ヒッタイト人(インド・ヨーロッパ語族)が「ヒッタイト王国」を建国
前1595年 ヒッタイト王国によってバビロン第1王朝が滅ぼされる
     →カッシート人がヒッタイトに滅ぼされたバビロニアに入り、
     バビロンを都に「カッシート王国」を興す
前1500年 ミタンニ人がハブル川上流域に「ミタンニ王国」を建国

このころのオリエント世界は、下のように王国が並立。
覇権争いは熾烈だった。

 オリエント┬メソポタミア南部‐カッシート王国
      ├メソポタミア北部‐ミタンニ王国
      ├小アジア(アナトリア高原)‐ヒッタイト王国
      └エジプト‐エジプト新王国

この熾烈な争いを生き延び、後に「帝国」を築いたのは…
カッシートでもミタンニでも、ヒッタイトでもエジプトでもない。

ここで上の年表を見てほしい。

ウル第3王国滅亡後…
メソポタミアでアムル人の都市国家イシンとラルサが抗争していた頃。
メソポタミアでは、アムル人がアッシュルに「都市国家アッシリア」を建国している。

都市国家アッシリア」は、覇権を求めず交易に専念。
アッシリア人は、メソポタミアから農産物や毛織物を小アジアに運び、金などと交換して持ち帰った。
交易のため、小アジアに植民都市キュルテペを建設している。
相当な富みを形成したであろう…。

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アフガニスタン方面で産出した錫やバビロニア産の高級織物を小アジアまで運んで売りさばくアッシリアの中継貿易商人も有名です。
錫は青銅を作るのになくてはならない金属ですが、産地が限られていたため、重要な交易品でした。
アッシリア商人の場合は、小アジアに支店を構えて商人を常駐させ、長期間にわたって営業活動を行っていました。

中田一郎『メソポタミア文明入門』
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都市国家アッシリア」は…
シャムシアダト一世王国やハンムラビ王が、そしてミタンニ王国アッシリアを支配したときも「王朝」だけは継続させている。
(その理由を説明した本には出会っていないが、アッシリア人の富が物を言ったことは想像できる)

商売上手なアッシリア人は、戦争が苦手だったわけではない。
情勢を見ては機敏に行動した。

前1340年、国王の暗殺によるミタンニ王国の弱体化をみて、ヒッタイトがミタンニに攻め込んだ。
都市国家アッシリア」のアッシュール・ウバリト1世は、ヒッタイトの攻撃に乗じてミタンニを攻め、首都ワシュカンニを占領。
ミタンニ王国からの「自立」に成功した。

その後「都市国家アッシリア」は、前1263年のミタンニ王国の滅亡により完全に独立を果たした。
さらに前1207年、トゥクルティ・ニヌルタ一世の治世の下で、ミタンニの残存勢力を北シリアから一掃しアッシリの支配権を確立した。

順風満帆かと思われた「都市国家アッシリア」だったが…
トゥクルティ・ニヌルタ一世の暗殺を機にその後は約270年間の停滞と混乱期を迎えることになる。

ミタンニ王国が滅亡して、アッシリアが独立を回復した後…
前1190年頃にヒッタイト王国が「海の民」によって滅ぼされている。
(海の民の実情は不明なので、ヒッタイト滅亡の理由も詳しくはわからない)

前1155年、「カッシート王国」がエラム人に滅ぼされた。
バビロンから主神マルドゥク神像やハンムラビ法典碑が、エラムの根拠地スーサに持ち去られた。
(ハンムラビ法典碑は1901年、フランスの発掘調査隊が「発見」してフランスに持ち帰り、その後はルーブル美術館が所蔵している)

前1139年、イシンに興った新しい王朝(イシン第2王朝)がエラムの支配からバビロンを奪回して周辺を支配下に置いた。
このときに、マルドゥク神像も奪還されている。
カッシート人はイシン第2王朝の要職にとどまることになったので、「カッシート王国」と「イシン第2王朝」の時代を「カッシート時代」と呼ぶこともある。

カッシート人はアムル人ではない“異民族”だったが、シュメール以来のバビロニア文化を継承した。
イシン第2王朝は前1026年頃に滅亡している。「アッシリアの圧迫」という説明もあるが、詳しくはわからない。
確かなことは、イシン第2王朝の滅亡後の南メソポタミは北メソポタミアと同様、政治的混乱期になったということだ。

こうして前2千年紀の西アジアは、政治的混乱で終わりを迎えた。

 

【前1千年紀】前1000年~1年
アッシリアから新バビロニア、そしてペルシア
「帝国」支配の1千年紀f:id:akanezora1234:20200511180951j:plain

アッシリア帝国の「始まり」

「帝国」を
「複数の地域や民族に対して君臨し、大規模で歴史にも残る国家」
であるとすれば…

前1千年紀は
アッシリアから新バビロニア、そしてペルシアへと続く
「帝国の時代」だった。

アッシリアの「帝国時代」は
アッシュル・ナツィルパル二世(在位:前883~859)シャルマネセル三世(在位:前858~824)の治世で始まった。

都市国家アッシリア」は交易で富を手に入れていたが、
アッシリア帝国」は遠征(略奪)で富を入手する「軍事的征服国家」に変貌した。

軍事国家への変貌は技術の変化でもある。

前1000年頃、馬具や調教・乗馬技術の開発・習熟により、すでに戦車から騎兵への移行が始まっていた。
機動力とコスト面で、騎兵の方が有利だからだ。
アッシュル・ナツィルパル二世は戦車隊とともに、初めて騎兵隊も創設している。

とはいえ…
軍隊の基本は歩兵の軍事力。
アッシリアは農夫を招集する徴兵制度を実施して、入念な訓練をほどこしている。

アッシリア人は、鉄の武器を幅広く活用した初めての民族だった。
(ヒッタイトが独占していた製鉄技術は、ヒッタイト滅亡後オリエント全域に広まっていた)

青銅を作るのに不可欠な錫(すず)とは異なり、鉄なら中東のあちこちで採掘されていた。
鉄製の武器は青銅のものよりも優れていたばかりか、大量生産が可能だったために、アッシリの大軍でも装備することができたのである。

しかし…
諸国は“アッシリアの略奪”
におとなしくしたがったわけじゃない。

シャルマネセル三世は、大軍を率いてシリア地方に遠征を「繰り返している」。
これは、シリア・パレスチナ諸国家が「反アッシリア同盟」を結成して抵抗したからだ。
(シリア・パレスチナ諸国家はシャルマネセル三世の4回目の遠征で降伏)

前832年…
アナトリアのウラルトゥ王国は、アナトリアからティグリス川上流のヴァン湖の近くに遷都。

前9世紀に始まったアッシリアの「帝国時代」は、
隣国「ウラルトゥ王国」の伸張によって停滞した。

 

●「本格化する」アッシリア帝国

アッシリアの「帝国時代」は
ティグラト・ピレセル三世(在位:前744~727)によって再開。
…というよりも本格的に始まった。

服従した国家は「属国」として支配。
抵抗する国家は滅ぼして「属州」としてアッシリア人総督に治めさせた。

これまでの王は、戦利品の獲得や服従の姿勢の確認で満足して帰国したが、
彼は「国境そのもの」を広げた。

兵器・武具の改良にも熱心で「軍制改革」も実行。
これまでの徴兵によって編成されていた軍隊を、
属州・属国から徴募され訓練された職業軍人による常備軍に切り替えた。

さらに、征服民の強制移住政策を徹底。
諸民族を混合させることで反乱の可能性を断った。
二十年に満たない治世で40回もの強制移住を実施し、50万人以上の人々が移住させられた。

前735年には、ウラルトゥの王シャルドゥリシュ2世と戦ってこれを制圧。
前734年、ペリシテ人都市国家ガザを征服。ユダ王国服従して属国となった。
前733年、イスラエル王国の三分の二を併合して属州に編成

ティグラト・ピレセル三世は…

こうしてシリア・パレスチナ地方の支配を固めた後に東に反転。
メディア人やマンナイ人を破り、前729年にバビロニアを征服。
自らバビロニア王に即位している。

アッシリア帝国「頂点から崩壊へ」

圧力的な支配は、「強さ」と同時に「脆さ」もはらむ。
アッシリア帝国の末期は、政権内の謀反と征服地の反乱に終始している。

サルゴン二世(在位:前721~705)
センナケリブ(在位:前704~681)
エサルハドン(在位:前680~669)
アッシュルバニパル(在位:前668~627)

「帝国」は上記4人の
サルゴン王朝の時代に頂点を迎えた後、一気に崩壊した。


前721年(前722年?)、サルゴン二世はイスラエル王国を滅ぼし、
イスラエル人指導者などを奴隷として連れ去りまたは追放して、
替わりににメソポタミアなどからの異民族を移住させた。

サルゴン二世の後を継いだセンナケリブは、ニネヴェに新王宮を建設。
シリアのフェニキア諸都市がエジプトの援助を受けて反逆したため、これを征討。

エラムの支援を受けて反アッシリア闘争を続けるバビロニアへ、自らの王子をバビロン王として派遣した。
しかし王子はエラムの捕虜となり、捕囚先で死亡したので、バビロンを徹底的に破壊した。
その後センナケリブは、後継者をエサルハドンに決定したことにより、他の息子たちによって暗殺された。

兄の反乱を鎮圧したエサルハドンは、父王とは違いバビロンの復興に取り組んだが、
シリアとパレスチナを支援するエジプト侵攻の途中に死去。

アッシリア王に即位したアッシュルバニパルは、先王のエジプト遠征を継続。メンフィスを再征服してアッシリア軍のエジプト駐屯を実現させた。
ところが前651年、バビロニア王になっていた実兄がエラムの支援を受けて反乱おこす。
アッシュルバニパルは実兄の反乱を助けたエラムに遠征中に死去している。

アッシリア王国は、アッシュルバニパル後、指導力ある国王を持てなかった

前625年、カルデア人ナボポラッサルが新バビロニア(カルデア王国)を建国。
前612年、新バビロニアとメディアは同盟を組み、ニネヴェを陥落させてアッシリア王国を滅ぼしている。


アッシリア帝国後の西アジア

新バビロニア・リュディア・メディアの三つに分裂したアッシリア王国だが、
キュロス二世が建国したアケメネス朝ペルシアはこの「分裂」を再統合。
さらにエジプトも併合してオリエント世界を統一した。

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…と、その前に
高校世界史の教科書で必ず取り上げられる「バビロン捕囚」について説明しておく。

アッシリア王国滅亡後の前597年、
新バビロニアネブカドネザル2世がユダ王国エルサレムに侵攻。
ヨヤキン王を含めた1万ほどのイスラエル人をバビロンに連れ去り捕虜とした。(第一次バビロン捕囚)

前586年、ネブカドネザル2世によってエルサレム城壁が崩され神殿は破壊された。ここにユダ王国は滅亡。
このときもバビロンに多くが捕虜とされて連れて行かれた。これが第二次バビロン捕囚だが、一般に「バビロン捕囚」と呼ばれている。

バビロン捕囚は、新バビロニア(カルデア王国)によるイスラエル人の強制移住政策だ。
しかし、同じイスラエル人の強制移住政策であっても、アッシリア王国とはやり方が違った。

前721年(前722年?)、アッシリアサルゴン二世はイスラエル王国を滅ぼし、
イスラエル人指導者などを奴隷として連れ去りまたは追放して、
替わりににメソポタミアなどからの異民族を移住させている。

イスラエル王国の住民をアッシリア領土内各地に分散させ、
イスラエル王国領に他の住民を移住させて被征服民を混合させた。
イスラエル王国の人々は移住先の人々の中に吸収されてしまい、イスラエル人としての同一性を保てなかった。
イスラエル王国を構成していた十の部族は「うしなわれた十部族」となったのである。

これに対して新バビロニア(カルデア王国)は、旧ユダ王国の住民をまとめてバビロン近郊に住まわせている。
ユダ王国の領土は放置して、植民活動は行っていない。
(だからユダの人々はイスラエル人としての同一性を保てたし、バビロン捕囚後には故郷で民族の再建を図ることができた。)

ちなみに…
      
新バビロニア(カルデア王国)ネブカドネザル2世は、遠征で得た富でバビロンに多くの建築を残している。
(イシュタル門や、バベルの塔のモデルとなったともされるマルドゥク神殿エサギルのジッグラトなど)
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たった一人の軍事的・政治的天才が、歴史に大きな影響を与える。
世界史上、そのような人物は珍しくない。

アケメネス朝ペルシアを建国したキュロス二世も、「そのような人物」だ。

前559年、キュロス二世はメディア王国に仕える地方領主として即位した。
しかし前550年には、首都を征服してメディアを滅ぼしている。
さらに前547年にはリュディアを、前539年には新バビロニア(カルデア王国)も滅ぼしている。

キュロス二世は「バビロン捕囚」されていたイスラエル人(ユダヤ人)のエルサレム帰還と神殿の再建を許可し、
バビロンに没収されていた神殿の器物も返している。

前525年、アケメネス朝ペルシアのカンビュセス2世は、エジプトを併合して古代オリエント世界を統一。

前522年にはダレイオス一世が西はエジプト、トラキア地方から東はインダス川流域に至る広大な領土を統治。
アケメネス朝ペルシアは、全盛期を迎えた。

肥沃な「三日月」地帯なのに

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●「三日月」じゃない?

上の図は…
多くの高校で使われる教科書‐『詳説世界史B』山川出版‐に載っている地図。
地図が載っている頁では「シリア・パレスチナ地方は、メソポタミアにかけて“肥沃な三日月地帯”を形成」と説明する。

地図には“肥沃な三日月地帯”が赤色で示されるのだけれど…
“そこ”は、地中海沿岸からペルシア湾までの「帯状」であって「三日月地帯」とは違う。

でもね(^_^)

勉強ができる高校生は「ま、とりあえずスルーしておこう」と先へ進むし、
こだわる生徒が先生に聞いても「そうだね」でおしまいだろうなぁ。

 

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●やっぱり「三日月」だった!

「おぉー!三日月だぁ」

上の地図は、藤井純夫『麦とヒツジの考古学』(2001年)に載っている図版。
同書10頁には、こんな説明がある。

「平原部と山岳部の中間に広がる山麓・丘陵地帯(いわゆる「肥沃な三日月地帯」 fertile crescent)である。現在の野生ムギの分布も、この地域に集中している」


嬉しくなって『大英博物館版 図説古代オリエント事典』(2004年) を探すと、
簡潔な説明があった。

「肥沃な三日月地帯は、その西端を地中海南東部、その中心をアラビアの真北、その東端をペルシア湾の北端として、南側に開いたほぼ半円形をなす」


ピーター・ベルウッド『農耕起源の人類史』(2008年)の解説は、詳細だ。

「肥沃な三日月地帯は、ヨルダン渓谷から北へ、シリアを抜けて東南トルコにいたり、そこから東に折れ、イラク北部をかすめてさらに東南に走り、イラン西部のザクロス山脈まで達するちょうど三日月をふせたような形の土地をいう」

 

●なぜ「帯状」になったのだろう

なぜ教科書は
「三日月状」を「帯状」にしてしまったのだろう?

教科書では
「シリア・パレスチナ地方ではメソポタミアにかけて“肥沃な三日月地帯”を形成」と説明する。

この「メソポタミア」が問題だ。

なぜなら「メソポタミア」とは「ティグリス・ユーフラテス両河に挟まれた地域」のこと。
(教科書の地図ではメソポタミアを離れて、シリア砂漠まで「三日月地帯」にしているけど)

教科書の説明に沿って説明すれば
「地中海側のシリア・パレスチナ地方からメソポタミアより北東の地域にかけて“肥沃な三日月地帯”を形成」と書いてほしかった。

 

●「三日月」にこだわる理由

なぜ肥沃な「三日月」地帯に、こだわるのか。

藤井純夫『麦とヒツジの考古学』(2001年)に載っている図版を、
もう一度見てみる。

肥沃な三日月地帯をはずれて「東・南に行くほど降雨量が減少」とある。

肥沃な三日月地帯が「肥沃」なのは、
年間降水量200ミリ以上の比較的まとまった降雨にめぐまれ、手の込んだ灌漑をする必要のない天水農耕の可能な気象条件だからだ。

メソポタミア文明
メソポタミアの中でもより乾燥した「シュメール」で興った。
https://koukou-sekaishi.hatenablog.com/entry/2020/04/14/142805
→「メソポタミアの古代の地域名」

灌漑ができれば、
天水農耕と比べて単位面積あたりの収穫量が数倍から数十倍になる。

あえて「肥沃な三日月地帯」を出て、
より過酷な自然に挑戦する人がいた。

そういう人たちがいなけば
メソポタミア文明」はなかったのだ。

『図説古代オリエント事典』が面白い

 

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写真は…

「粘土で作られた封筒」!

大英博物館所蔵だけど、残念ながら大きさは分からない。


『事典』279頁には…

「粘土板に書かれた手紙は粘土の封筒に入れられ、受取人はそれを壊して開封した。この珍しく残った封筒には、受取人の名と送り主の印影が見られる。古バビロニア時代、前1700年頃」と、ある。

シュメールで絵文字を元に楔形文字が生まれたのが、前2500年頃。
葦のペンで粘土に刻み込むから、粘土板が「紙」だった。

それにしても…
3000年以上も前のモノが、よくも壊れずに残っていたもんだ。

メソポタミアの古代都市の「大きさ」?

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『図説』だけあって地図も載っている。(499頁)
メソポタミアは、次のように区分けされる。

メソポタミア┬北部─「アッシリア」(バグダッドより北の地域)    
      │
      └南部─「バビロニア」┬北部─「アッカド
                │
                └南部─「シュメール」

ちなみに「バグダッド」は、ティグリス川とユーフラテス川が近づいたところ。
上の地図でいえば、バビロンの北東にある。

シュメールは、メソポタミア文明が興った地。
ウルやウルクといった都市国家が生まれた。

『事典』によれば…

ウルクは、シュメール最古の都市の中で最大の規模。
神殿・宮殿・運河・道路を整備、
前2700年頃には、人口が4~5万人。

城壁で囲まれた面積は、
なんと「400ha」もある。

東京ディズニーリゾートが、
「2つ入る大きさ」じゃないか!

 

アッシリア王国の宦官兵

去勢された官吏である宦官(かんがん)は、
国史で有名な存在だ。
(去勢について具体的に知りたい方には、佐原真『騎馬民族は来なかった』がおすすめ)

『事典』によれば…

アッシリアの軍隊と行政において、宦官は高級司令官。

・前9~8世紀にはアッシリアの上級官僚の10%以上は宦官だった。

・宦官の出自は不明であるが、アッシリアにおいて彼らは貴族の家系出身でもあったということは確からしい。
 これらの家庭では男の子を去勢して、彼を前途有望な宮廷官僚として送り出したのであろう。

 

●執筆者の考えが「滲み出る」?

『事典』の正式名称は
大英博物館版 図説古代オリエント事典』。

図版の多くは大英博物館所蔵だし、
言葉の定義も大英博物館で使われる用法に従っている。

とはいえ…

執筆者が考えが滲み出るというか、
「ほとばしる」ような箇所もあって興味深い。

例えば
出エジプト」の項目では…

ヘブライ語の書物に適用された宗教史や文献批判などの研究は、
さまざまな仮説をもたらした。

なかには、出エジプトは存在せず、
全ては宗教的なフィクションと結論してきた仮説もある。

しかしどんなファラオも
彼の労働力の喪失を記念碑で誇らないであろうし、

そのような事件を記録したかもしれない
パピルスや皮、木製の書字板上の行政記録は、
デルタの湿度の高い土壌では
すぐに朽ち果ててしまったであろう。

同様に、野営する群衆がシナイの荒野やトランスヨルダンに
認識可能な遺物を残したということもありそうにない。

したがって証拠の不在は不在の証拠ではないのである!

…と、執筆者は「聖書考古学者」に手厳しい(^_^)

なぜ「高校教科書」なの?

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●高校教科書の内容は大学院レベル?

佐藤優(まさる)さんは、元外務省主任分析官。

多作な作家としても有名だ。

高校レベルの知識があれば…

「教養書はもとより、標準的な学術書ならば消化できる」と断言。
「教科書と学習参考書を併用すること」を勧めている。

「併用」を勧めるのは、
教科書の内容が高度で、説明がわかりにくいからだ。

どのくらい「高度」かといえば…
佐藤優『読書の技法)

・世界史はロシアなら、4年かけて教える内容を1年で詰め込んでいる。
・内容を正確に理解するためには大学を飛び越えて、大学院レベルの知識を必要とするものも多い。

「説明がわかりにくい」のは…

他の本にはない「教科書検定」も理由になっている。

そこで「参考書」の出番だ。

・参考書はそれだけを読んでもわかるような、自己完結した構成になっている。
・参考書は、教科書よりもずっと内容が優れていることが多い。

と、佐藤さんはいう。


●参考書を買ってみたけど

僕は、佐藤さんが勧める参考書を買ってみた。

教科書と違って「何が書いてあるのかわからない」なんてことはない。
かみ砕いた柔らかな文章。
サラッと読めて大枠がわかった(ような気がする)。

でも…

物足りなさというか「違和感」が、拭えない。

考えてみれば当たり前のこと。
参考書は「難しい部分」を省くことで
「わかりやすい」構成になっている。

なにせ教科書は「ロシアなら4年かけて教える内容を1年に詰め込んだ本」だから。

そんな「やっかいな奴」を相手に
「難しい部分」もかみ砕いて柔らかな文章で説明すれば
ページ数がいくらあっても足りないじゃないか。

教科書は、説明しにくいところを、ぼかして書くことも上手だし。


●「世界史 教科書」でYouTube検索してみた

大学受験のことだけを考えても、覚えるべきことは教科書に全部そろっている。

教科書は最強の教材だ。

そこで
「世界史 教科書」でYouTube検索してみた

「人名は黄色、場所はオレンジでマーカーして暗記」
「太字の語句を緑ペンで着色、赤シートで穴埋めにして覚える」

いろんな「暗記方法」が紹介されている中で
異色の動画を見つけた!!

山川の教科書を撮影して
本文を読んでいく
…だけ(^_^)

はじめは「え!」と思ったけど
「こういう方法もあるなぁ」と
考え直した。

教科書で「○○○」と書いてあるのは「△△△」という意味。
「×××」については書かれていないけど
教科書は「×××」については「わかってる」という前提で書かれている。

そんな感じで…

逐一(徹底的に)教科書を読み直していくことも
教科書理解の方法じゃないか♪

 

YouTube版「ゆうぞう☆高校世界史を学び直す」は、そう考えて作っている動画。お役に立てば幸いだ(*^o^*)

共和政ローマでの「投票の仕組み」

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塩野七生ローマ人の物語』1巻を読んだ。

古代ギリシア共和政ローマの「投票の仕組み」が書かれていた。

ギリシアが一人一票なのに対して、ローマは「百人隊」という組織ごとに投票する。

いわば「小選挙区制」ということらしい。

 

どれだけ立候補者があろうと、当選するのは各選挙区で一名。

これが「小選挙区制」。

どうして「組織ごとに投票すること」が「小選挙区制」になるのか。

わからなかった…。

 

共和政ローマの「投票の仕組み」については

長谷川岳男『背景からスッキリわかるローマ史集中講義』がおすすめだ。

 

ギリシアでもローマでも…

「民会」は、全市民が対象とする「市民集会」だ。

 

古代ギリシアの場合、巨大なアテネでも市民は2万人程度。

この人たちがすべて集まることはないから、議決に必要な定足数は6千といわれている。

 

しかしローマは最大の時期で人口が100万人。市民数もギリシアの比ではない。

「一人一票」の投票は不可能だ。

 

そこで…

「一人一票」ではなく「それぞれの所属集団が一票をもつ」仕組みを採用した。

しかも人は複数の集団に所属するから、「どの所属集団が票を持つか」によって三種類の民会があった。

(クリア民会は後に形骸化するから実質の民会は2つ)

・クリア民会

・ケントゥリア民会

・トリブス民会(平民会)

 

共和政ローマでは、全市民に兵役の義務があった。ローマ軍=全市民軍なわけだ。

ケントゥリアはローマ軍の部隊名で、全部で193。

全市民は「財力」によって所属するケントゥリアが決まっていた。

 

・完全装備に馬を持参する「騎士のケントゥリア」が18部隊

・完全装備の「重装歩兵」となる「第一クラシス」が80部隊

 

投票は上位のケントゥリアから行われ、過半数が判明した時点で打ち切られる。

ということは…

第一クラシスのケントゥリアが投票する時点で投票は終わっている。

財力がない「平民」には、投票の機会がなかったわけだ。

 

トリブス民会は平民だけが参加する民会。全市民参加ではないので「平民会」という。

全市民参加ではないけど、前287年「ホルテンシウス法」で平民会での決議が全ローマの決議となることになった。民会の中心は、ケントゥリア民会からトリブス民会に移行していった。

 

トリブス民会での投票単位「トリブス」とは、居住地区によって分けられた「選挙区」のこと。

ポイントは、選挙区の区割りだ。

市民の多くが低所得者の市内には4つのトリブスにまとめられ、それ以外のトリブスは重装歩兵の中核となった自営農民の居住区に当てられた。

トリブス民会であっても、ケントゥリア民会の「第一クラシス」に当たる市民の意思が重視されたわけだ。

 

共和政ローマでの「投票」は一人一票ではない。 

「軍団の部隊」や「居住区」という「投票集団」が一票を持つ。

小選挙区制というよりは間接民主制のイメージが実態に近いと思う。